ある国にどんな盾も突き刺すことが出来ると言ってヤリ(矛)を売っていた男がいたが、この男盾を売る時は「この盾はどんなヤリ(矛)も通さない」と言っていた。
そこで客の一人が「そのヤリ(矛)でその盾を突いたらどうなるんだ」と尋ねる、男は返答に困り逃げてしまった。
確か中国の話だったと思うが、これが「矛盾」の語源となったとされる。
だが、こんなことを考えたことはなかっただろうか。
もし全ての手が読める将棋の名人と、こちらも全ての手が一瞬で読める将棋の名人同志が対戦したら・・・。
棋盤を挟んで両者が対戦、だが二人は座っただけ、将棋の駒はどちらも一手も進んでいない、両棋手とも微動だにせず時間だけが過ぎていく、そしてやがて片方の将手が座布団を降りて、深く頭を下げる「私の負けでございます」
もし全てが読める者同士で将棋の対戦が行われたら、きっとただの一手も動かさずに勝敗がつくことになる。
ではこの将棋の勝敗は一体どの時点でついたのだろう・・・こんなつまらないことを高校生の頃考えていた。
絶対当たると言う預言者、もし今日1日の自分の行動を全て予言したとしたら、その予言を聞いた自分がその通りにならないようにしたら、予言は外れてしまうことになる。
この場合予言が当たっているほど外れる確率が高くなるが、では最初に見た預言者の未来はどこへ行ってしまうのだろう。
もしかしたら全てを見通せる予言者は、予言をすればするほど、その予言が外れる確率を高めることになりはしないか、反対に本当は未来など何も見えない偽予言者ほど、未来に干渉する可能性が無いだけ予言があたり易いのでは・・・と考えていた。
未来に置いて結果として現れるものには、その結果になる原因があるのは当たり前だが、その原因であれば常に結果は同じになるだろうか、恐らく原因が同じでも結果は違うことが多いのではないだろうか。
だとしたら、それを違わせているものは何だろう。
寸分たがわぬ精度を持った投球マシーンを、これまた寸分たがわぬ精度で打てるマシーンで打ち返したら、気温、風、湿度その他全ての条件が同じであったなら、いつも同じ方向、同じ距離で、何度やっても球は同じところに落ちるだろうか。
実際私達が生活している社会でこれはありえることだろうか・・・絶対あり得ない。
それは条件が一緒にならないと言うことから始まって、そもそも始めから同じ条件があり得ないのである。
砂粒の1つ、細菌の1つとして同じ空間の同じ位置を、2つのものが同時には占められない、同じ条件にしようと触っただけ、見ただけでその原因はどんどん変化していく、だからどんな生物も物も一つとして同じ運命があり得ないのである。
将棋の疑問の回答はこうだ。
一手も間違えない同志の対戦は、先手と後手が決まった時に勝敗が付いたのである。
この場合、同じ実力で双方一手も間違えないとしたら、条件で有利なのは「先手」つまり最初に攻めることが出来る権利だけである。
だからこの将棋の対戦は先手、後手が決まった時、後手の負けが決まっていたのだが、それじゃ将棋の勝負じゃないのでは・・・と思うだろう。
そうだ、こうした絶対的運命論は始めから存在しないのである。
同じように予言者も、全てを知ることが出来る予言者が未来を見ようとして、その未来の細かいとこまで見ようとすればするほど未来は霧に隠れていき、予言者の存在がなければ未来はくっきりしているのである。
こうした事を難しい言葉で言えば「不確定性原理」と言い、そしてこれは何の話かと言えば、原子の話だったりする・・・。