| 1872年・・・バビロニアの都ニネヴェの遺跡が発掘されたとき、偶然、古代王室の図書館跡が発見されたが、内部には楔形文字を刻んだ粘土板がぎっしり納められていて、発掘に当たった考古学者、言語学者たちは歓喜の声を上げた。 さっそくその楔形文字の解読が進められたが、その中に紀元前2600年ごろに書かれたと推測される古代叙事詩のテキストを見つけ出した・・・これが今日世界最古の物語と称されることになるギルガメシュ神話であり、その連続する粘土板の11番目の板にどこかで聞いたことのある有名な話が出てくる。「おお、芦小屋よ開け、壁を理解せよ。ウバラ・トゥトウの子なるシュリッパクの人よ、汝の家を壊し、船を造れ。汝の財宝を運び去れ。汝の生命を追い求めよ。物を捨て汝の生命を温め、あらゆる種を船に乗せよ。汝の造る船はその大きさを定めた、その幅と長さは等しい、屋根を葺け」 英雄ギルガメシュの祖先ウト・ナピシュティムは大神エアからそう告げられ、方舟は7日のうちに作られ8日目の朝が来た・・。 夜が明ける頃、水平線から暗雲がもくもくとわきあがり、雷神アダドは暗雲の中で轟きわたり、神シュルラトとハニシュは雷神の使いになって山、里を走り回り、下界の神エラガルは大地の基を抜き、神ニヌルタは豪雨をもたらし、下界の神アヌンナキは松明を高くかざして、国を焼き尽くさんとする様相・・・アダドの激しい豪雨は天にも達し、光明は暗黒となり、大地は壷のように打ち砕かれた。 どうだろうか・・・このギルガメシュの叙事詩・・・どこかで聞いたどころかノアの方舟そのものではないだろうか・・・。 1927年から1929年・・・アメリカ・イギリス共同調査チームは古代メソポタミアの墓地を発掘調査したが、ここでどんどん深く掘り進んで行くと、ある深さから突然土の層が激変した・・・純粋な粘土層に行き着いたのである。 粘土層下部にはいくつかの文明が混じった状態、並存した複数の文明が認められ、スメールと、スメール文明以前にこの地方で居住していた人種に属するものと思われるものが混じっていたが、粘土層上部には純粋なスメール文明の特徴を持った遺物しか出てこなかったのだ。 だがこのノアの大洪水・・・規模は世界的な規模と言い難いことはその後の聖書解説にも現れるが、最大でも長さ650キロメートル、幅150キロメートルと言った現実的な規模で、局地的な氾濫現象だったようだが、地震による被害に加え、激しい台風の接近によって、ユーフラテス川の下流が津波に襲われた結果だと説明されている。 洪水伝説は世界各地で伝わっていて、その数は100以上に及ぶが、こうした世界各地に共通して伝わる洪水伝説から、氷河期が終わり間氷期に移行する課程で、世界的な洪水が発生したとする考えもあるが、私見として言わせて頂くなら、およそ古代文明は農耕の都合から大きな河川の近くで成立した・・・・そこで数年単位で起こるものは河川の氾濫である。 ノアの方舟が漂着したとされるアララット山はトルコ、イランの国境を接する辺りに位置しているが、標高5157メートルのこの山は1840年7月2日、突然噴火するが、噴火口がなく山腹に亀裂が走ってそこから溶岩が流れ出し、このため山腹の万年雪や氷河が融けて、なだれが頻発した。 それで「これこそノアの方舟に違いない」と騒いだのは、ふもとの僧院であり、来る人ごとに双眼鏡で眺めさせたが、1855年、方舟の発見に生涯を賭けていたF・ナヴァラがアララット山に登り確認したところ、単なる天然の露出岩だったことが判明する。 これとは別になるが・・・ この報告によって直ちにトルコ陸軍の調査隊が現地に向かったが、くだんの方舟は標高1800メートルの地点にあり、あたり一面厚い溶岩で覆われ、船型も溶岩で縁取られていた・・・内部は柔らかい土が入っていて緑の草が生えていたが、トルコ陸軍陸地測量部長ソイダン少佐はこの方舟について、船の化石と思われるが、溶岩と地形からこうした形状が形成される可能性もありうる・・・とも発言している。 この方舟は1916年にもロシアの飛行家によって、空中から確認されていたらしいが、湖のそばに巨大な船の骨組みを確認した・・・船体の上部に穴が開いているようで、船側には双開きの大きな扉があり、その片方は破損している・・・としていて、トルコ軍が撮影した空中写真でも同じように見える。 紀元前3世紀、ペルシャの祭司ペロッソスの記録によると「ゴルデア山(アララット山の古代名)の上にシストロス王(ペルシャのノア)の船の遺物があり、今も見ることができる・・・この地の者はそこからアスファルトの被服をはがし、薬として使っている」となっている。 ノアの方舟は本当に存在したのだろうか・・・もし存在したのなら過去、この地域は少なくとも1800メートルまで水没したことになるが・・・そんなことはあり得たのだろうか・・・。 |