紀元前10世紀、さすがにここまで来ると場所の特定は難しくなるが、エチオピアもしくはイエメン、この付近にその昔「シバ国」と言う国があったが、ここの女王はとても聡明で美しい女性だった。
彼女は時折不意にこの国を訪れる変わった旅人の話を聞くのが一番の楽しみだったが、この日もその旅の男が宮殿を訪れ、みなに異国の地の話をして随分賑やかな雰囲気になっていた。
だが女王はどうもあの話が聞きたくて、ついに我慢しきれなくなってきたようだった。
「サンジェルマン・・・、よろしかったらこの間の、あのお方の話を聞かせてはくれませんか」
「あー・・・、そうでしたその話は最後まで取っておこうと思っていましたが、どうやら女王陛下におかれましては、もしやあの方に恋をなされましたかな・・・」
その男は女王のはにかんだような表情に、豊かな微笑みを添えて頷くと、エルサレムのソロモン王のことを話し始めた。
聖書にはその名前こそ出てこないが、地の果てから来た「南の女王」がソロモンのうわさを聞き、彼に自身の悩みを聞いてもらうために訪れたと言う記述があり、伝説ではこの南の女王こそが「シバの女王」ではないかとされているが、そのとき彼女はたくさんの宝石や香料、珍しい織物などをソロモンに献上し、道のはるか彼方まで続く供の者たちを連れていたと聖書に記されている。
さて、それでだが・・・、これらの歴史に中に出てきた変わった衣装の男、サンジェルマンとは何者だろうか・・・。
歴史とは何か途方も無いような大きな力で動いているかのように思うが、その実大きな歴史の歯車は、ほんの小さな人の出会いであったり、僅かな時間のずれ、また偶然に端を発していったものが多い。
そしてそうした中で何か影で、僅かな偶然を操り歴史を動かしている者がいるのではないか・・・と言う思いは世界各地で伝説として残っているが、その中でもサンジェルマン伯爵のそれは、スケールや時間の流れを考えても群を抜く規模がある。
ありとあらゆる歴史上の転換期に現れ、時に政治家、時にはその後の世界を左右する出来事のきっかけをつくり、歴史に何らかの手心を加えているとされるサンジェルマン伯爵、ルイ14世に書簡を届けその方針を転換させ、モーツァルトにまるでモーツァルト自身の為であるかのようにレクイエムを依頼、十字軍ではリチャード1世と会い、聖書中のソロモンとシバの女王を繋ぐ、一体どれくらい生きて、何が彼の目的だったのだろうか。
サンジェルマン伯爵はいつもどの時代でも、アルメニアの古い貴族の格好で現れているが、そのためどこの時代でも変わった衣装、もしくは異国の装束を・・・と言う伝説がある。
また誰も彼が食事をしている場面を見たことが無く、どんな宴席でも人前で食事をしていないと言われ、一説には2000年とも4000年生きているとも言われているが、そこの連続性が無い、つまりめちゃくちゃな時代にとんでもない話をしているからで、シバの女王などは「未来」についての話も聞いていたとされるくらいだ。
こうしたことからサンジェルマン伯爵は4000年前から生きていたと言うよりはむしろ、特定の時期に生まれ、自由に時間の中を行き来できた・・・と考えるほうが合理的だが、いずれにしても初めから合理性を欠く伝説にあって、それに合理性を求めたとしてもそれに何の意味があるだろうか。
そしてサンジェルマン伯爵は、歴史上の実在の人物だ。
生まれた日ははっきりしないが、1708年1月16日と言う説があり、スペイン王女マリー・アンヌ・ド・ヌヴールとメルガル伯爵の間にできた、いわゆる認められない子どもとしてこの世に生を受けたものの、こうした生まれであることから、生涯生活に困る状態ではなかったことが伺えるが、1746年まではロンドンに住んでいた。
だがその後1758年までは消息が分かっていない、資料では東洋を旅していたとも、ドイツで「錬金術」つまり人の手で「金」を作り出す研究をしていたとも伝えられるが、こうした話は彼が不老不死の妙薬を完成させたと言う話と同様、ある種謀略によって流布されたもののようにも思えるが、サンジェルマンはどうした訳かこうした噂話を否定しなかった。
1758年初め、パリに現れたサンジェルマン、彼はマリニーと言う宮廷の営繕官に王族が所有する施設を研究室として使わせて欲しいと頼んでいるが、その際の見返りとして面白いことを言っている。
当時のフランス国王ルイ15世に「人類が求め得るものの中でもっとも素晴らしいものを見つけることになる」から、人が住まなくなっている城を1つ貸してくれと言っているのだ。
その後サンジェルマンはポンパドゥール公爵夫人に面会する機会を得るが、サンジェルマンの博識ぶりにその日から彼のファンになった夫人は、国王ルイ15世にも彼を紹介し、ルイ15世も瞬く間に彼のファンになっていく。
こうした背景を考えるにあくまでも噂だが、サンジェルマンは催眠術を使っていたのではないか、また特殊な香料で人の感覚をコントロールしていたのではないか・・・と言う話が囁かれるのだが、実は惚れ薬、「媚薬」と言う発想はこうした時代から現実味を帯びて行った背景があるが、どうだろうかサンジェルマンは宝石についての知識も相当なもので、表面研磨技術を習得していて、それで宝石修繕の能力を買われたのが、その出会いになって行ったのではないだろうか。
そしてここで何か気づかないだろうか、ルイ15世の前はルイ14世だ・・・、そうだルイ14世が没したのは1715年、サンジェルマンが1708年生まれとすると、サンジェルマンは7歳にしかなっていない。
こうしたことからルイ14世が受け取った書簡はもしかしたら別の、例えば国王から警戒されていたオルレアンが届けさせた可能性も出てくるのだが、実はサンジェルマンの書簡と称する伝説はあまた存在し、そのすべてを否定できない代わりに、どれが本物だと言う特定もできないのがサンジェルマンだ。
その後サンジェルマンとルイ15世の親交はどんどん深まり、ルイ15世は何かにつけサンジェルマンの意見に重きを置くようになっていったが、こうした傾向を苦々しく思っていたのがショワズール公爵で、彼は何とかサンジェルマンを追い落とすことができないかと考え、道化師を雇い妙な衣装を着させてサンジェルマンの偽者を作り、この道化師があちこちのサロンでサンジェルマンだと言って、自分は2000年生きているだの、いやリチャードに会ってきた、はたまたキリストの呪いで死ぬことができないなどの話をしていったのだが、どうもこの道化師の衣装が古いアルメニア風の衣装だったようだ。
結局ショワズールのもくろみは、この道化師の正体がばれることで失敗したが、こうした事態にそのおかしな噂を否定も肯定もしなかったサンジェルマンは、逆に今まで以上に神秘性を増し、その実態の不明瞭さとあいまって、更にその知名度が上昇して行ったのである。
(第3章へ続く)