「天神様」・1

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                            1989 5 3 撮影

2月25日、この日は大宰府で菅原道真公が亡くなった日だ。
菅原道真公と言えば学業成就の神様として有名だが、2月下旬ともなれば全国で天神様の祭りがあり、ちょうどこれから重なる受験シーズンとあいまって、まさに神にすがる思いで神社を参拝する受験生も多かろう。
何も助けてやることは出来ないが、せめて菅原道真公のいわれなどかいつまんでお話して、これを以って私の応援の気持ちとしようか・・・。

菅原道真が生きていた時代、国家試験はたいそう難しいもので、その試験は200年間にたった65人しか合格した者がいないすざまじいものだったが、この難しい試験に菅原道真は合格している。
間違いのない秀才、いや天才である。
菅原道真は890年代、宇多天皇を支え、右大臣にまで出世したが、この宇多天皇がたいそう道真をひいきにし、自身が天皇の位を醍醐天皇に譲るときも、その政治を補佐するようはからっているが、これに反発したのは左大臣藤原時平(ふじわらのときひら)である。

自身をも脅かす出世、たかが漢才(かんざえ・文人のこと)の分際で・・・、と思う気持ちがあったのだろう。
昌泰(しょうたい)4年、(901年)正月7日、この日時平と道真はともに従2位を授けられたが、道真に並ばれた時平としてはたいそう憤慨し、これに皇族でありながら道真に官位で追い越された源光(みなもとのひかる)とその一族は、既に17歳になっていた醍醐天皇も宇多上皇に反発していることを知り、ついに正月25日、道真の追い落としを謀る。

これにより菅原道真は「太宰権帥」(だざいごんのそち)に降格され、大宰府に左遷されるるが、道真はこれにたいそう落胆し、悲嘆にくれながらこの2年後、58歳の生涯を終えるのである。
だがもともと菅原道真と言う人はそれほど権力欲があったわけではなく、どちらかと言えばその権力は宇多天皇によって与えられていったものであり、後宮に娘を送り込むなどは、当時その立場であれば、誰もがそうするしきたりのようなものだった。

しかし藤原氏にとっては既に脅威になっていたこと、そしてもう一つは道真の秀才ゆえの優柔不断さである。
道真が藤原氏の思いを知らなかった訳ではなく、彼に対して三善清行(みよしのきよゆき)なども「気をつけなさい」と進言もしているのだが、当時朝廷の高官に任命されるときは、一応辞退するのが慣例となっていて、こうした事から道真も3度辞退したい旨の上奏文を出しているが、そこから見えるものは、余りにも形式的な文であり、このことから、藤原氏のことは気にしながらも、現状の立場も捨てがたかった道真の思いが感じられるのである。

そして道真の死後、こうなるとどうだろうか、何も悪くない道真は藤原時平によって大宰府に流され、そして悲嘆にくれて2年後に死んだ。
怨んでいるに違いない、祟るに違いないとなって行き、干ばつがあっても大雨があっても、それは全て道真公の祟りではないか・・・などとまことしやかに囁かれるようになるのである。
また藤原時平以下、早死にしたり、雷に打たれて死ぬ者などが続出したことから、ここに菅原道真の神性は確定的なものとなっていった。

それゆえ菅原道真の霊を鎮護する際は、その祟りを最も恐れた藤原氏の働きによって
これが成されていくが、北野天神に道真の霊をあわせ祀り、やがて大宰府にもその天神が勧請(かんじょう)され、その数十年後には太政大臣の称号がおくられ、天皇までもがここに参拝していくことになったのである。
「天神さま」・2に続く