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撮影年月日不明 ライブラリー写真
明治4年(1871年)、どうやらこの年を以って日本は近代、つまり鎖国を終え、国際社会への体裁を完成させたように見えるが、そのことは同年8月28日に、それまで最も低い身分だった「えた」「非人」の賤称を廃止し、身分、職業とも平民と同等とした事をして完成されたかに思えた。
しかし現実には明治政府が掲げた四民平等、つまり封建社会の身分制度の廃止は、官吏が旧来の武士階級となり、これ以後は官尊民卑と言う現代にまで連なる形無き階級社会として受け継がれた。
当時例えばこの明治政府の布告を受けて、日本で40万人がいわば完全差別から解放されるはずであったが、こうした要求は幕末の長州藩で「えた」の隊が結成されていたことや、慶応3年(1867年)には大阪、渡辺村の部落民が身分開放を幕府に陳情していたことからも分かるように、既に民衆の時の声であり、それに対して明治政府が答えた形になっていた。
それゆえ、これは伊勢の「えた」村だが、この賤称廃止令に喜び、みなで禊をして伊勢神宮に参拝し、「天恵の洪大」を感謝した・・・と言うことがあったのである。
だがしかし、これは確かに明治天皇のおかげで、形の上では自由になった格好だが、一方では彼らが悲惨な生活から抜け出す術は何も保障されず、その経済的状況は以前と変わらないまま潜伏した「差別」となって行った。
つまり法律上は差別できないが、実際の生活では影の部分での差別が続き、こうした差別はある種以前より暗いものになって行った経緯がある。
事実、賤称廃止令が発布された後も奈良県では「あれは5万日、先送りになった」などと部落民を欺き、その名称すら廃止しなかったことが記録として残っている。
そしてこの差別問題は130年経った今も尚、日本の中で問題として存在している。
また明治5年(1872年)10月、明治政府は人身売買の禁止を布告しているが、これにより娼妓、芸妓などの年期奉公人は解放され、農業、商業、工業でも徒弟制度の年期奉公は最長7年と決められた。
江戸期には隆盛を極めた吉原、この東洋屈指の歓楽地はこうして解体され、吉原の女衆は瞬く間に大八車に荷物を積み、去って行ったのであるが、ではその後人身売買がなくなったかと言うと、吉原が全国に散らばっただけに終わるのである。
この背景もやはり明治政府のその姿勢にあるのだが、この法律が発布される少し前、ペルーのマリア・ルーズ号と言う船が、中国人の労働者230人をマカオから買い集め、ペルー本国に向かう際、横浜に入港した。
だがこのときペルー船内でひどい扱いを受けていた中国人たちが耐えかねて、ついに船を脱走、イギリス船に救いを求めたのだが、イギリスとペルーは当時条約が存在せず、ことの審理は日本政府が行うことになった。
そして神奈川県参事大江卓(おおえ・たく)がこれを調査、外務卿副島種臣(そえじま・たねおみ)に、確かに中国人奴隷売買の事実ありと報告し、副島はこれをして中国人の本国送還を決定する。
しかし、これにペルー政府は強く抗議する。何だ日本は、自国内では女を売り買いしながら、人にはだめだと格好をつけるのか・・・と言うことになってしまった。
そこで明治5年の吉原解体に繋がって行ったのだが、こうした経緯から見えるものは、日本政府のやる気の無さである。
人の平等、人権から端を発した考え方ではなく、まるで搾り出されるトコロテンの如きから始まったものだけに、しっかり抜け道を作ってあった。
「本人の希望であるものはこの範囲に非ず」
政府の発布した人身売買禁止法にはこのような附則が付いていたのである。
およそ「金」のために身を落としている者に対して、本人の希望など「金」でどうにでもなるものであり、この法はザルにすら及ばない、いわば唯の筒法だったのである。
だから太平洋戦争前までは「本人の希望」でこうした売春、買春は合法化され、今日に至っても当局の厳しい取締りがある中、それでも値段の付いた女が掲載された雑誌が平気で書店に並び、携帯サイトでは交際に名前を変えた身売りが横行するのも、しっかりとした歴史的背景に支えられたものと言えなくも無いのである。
そして更に明治政府のこうした人目を気にした自由平等は続く。
既に鎖国体制が外圧により難しくなってきていた幕末、キリスト教に対する禁教政策もまた大きく揺らいでいたが、ペリーの来日、そして安政条約も結ばれ、長崎には外国人居留地が現れてくるようになると、元治元年(1864年)、長崎に新しい天主堂が完成していた。
そしてこれを知った長崎郊外、浦上村の村民は一目天主堂を拝もうと長崎を訪れ始めたが、そう言う意味では慶応元年(1865年)は、日本に措けるキリシタンの復活年とも言えるかも知れないが、浦上村民はこの後とんでもないことになっていく。
浦上村は奉行所直轄の村であり、こうした背景からそうした村の村民がキリシタン禁制を冒すとは許し難いとされ、全ての信者が捕らえられ、一箇所に置いておくと反乱でも起こされたら大変だと言うことから、各藩に分散され投獄に近い扱いとなったのである。
そして江戸幕府が終わり、時は明治となったが、それでもあらゆる事において改革を標榜した明治政府も、キリスト教の禁教対策だけは幕府を踏襲し、キリシタンたちへの弾圧を続けていった。
浦上の人たちは明治政府でもその身柄を拘束されたうえ、棄教を強要されたのである。
だがこうした日本政府の姿勢は外国使節団から強い抗議を受けることなり、明治6年(1873年)ついに政府はキリシタン迫害を中止し、それまで公然と掲げられていた札書きも撤廃したが、その心中はいかがかと言えば、やはり殉教までに及ぶ強い信仰心のある浦上村民を恐れ、いっそう監視の目を強めたのであって、そこには信教の自由などと言う高邁な理想など有ろうはずも無かったのである。
明治政府の取った施策は「改革」ではなく外圧に対してのものだった、つまり早く近代国家として世界の仲間入りをしなければならない日本政府にとって、そこにある理想などはどうでも良かった。
取り敢えず近代国家の原則を取り入れた事を外の世界に見せることが重要だった訳である。
それゆえこうした基本的人権に拘る問題は、全て法の下にかいくぐり、民衆もまたどこかでそれらが容認されることから、相変わらず封建制度の仕組みを影で継承していったのであり、差別、人身売買、そして宗教に対する自由と言ったものは、基本的には日本に根付いていなかったのである。
そして現代社会を考えるとき、太平洋戦争で何もかも失って、そこから立ち上がった日本は、今度は半ば強制的に西欧の文化を取り入れざるを得なかったが、おかしなものである。
官尊民卑は未だに残り、人種差別も未だに存在し、そして今に至っても新聞に売春、買春の事件記事が掲載されない日はないのであり、寿司ネタのトロ一つ食べるにも、相変わらず欧米列強の顔色を伺わねばならないのである。
我々はこの130年間、何をやってきたのだろうか・・・。 |