「忙しいから行く」

もうかなり以前のことになるが、知り合いの経営者に頼まれて、某著名代議士(故人)の講演の手伝いをしていたときのことだ。
私など大した役にも立たないことから、この代議士の送迎を担当していたのだが、講演が終わり車で飛行場まで送って行く道すがら、この老代議士は途中で飛行場とは別の方向へ行くよう私に指示した。
「ははーん、女か・・・」と思った私は何も言わず彼の言う通り車を走らせたが、意外にも到着した場所は葬儀会場だった。
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そして彼はおもむろに車から降りていくと、その葬儀会場の中に入って行き、どうだろうか10分ほどして今度は急ぎ足で出てきて車に乗り込むと、私にまだ飛行機の時間に間に合うかどうかと尋ねた。
だが正直もう30分も残っていない時間では、確かに飛行場まで到着できても、搭乗手続きが間に合わないように思った私は、もしかしたら無理かも知れないと伝えたが、彼はそれでも構わない、とにかく走ってくれと言い、それで私はまた車を走らせた。
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私は思った、こうして飛行機の時間があり、また明日も早くからスケジュールが押しているのであれば、わざわざ10分だけ葬儀に出るよりは、後日あらためて訪問した方が良いのではないかと・・・。
それで車を運転しながら恐る恐る、このことを老代議士に尋ねてみたが、老代議士はバックミラー越しに少し笑ったかと思うと、意外な事を言うのだった。
「君はまだ若いから分からんだろうが、忙しいから今行くんだよ」
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こう言われた私は当時まだ本当に若かった事もあって、意味が分からなかった。
結局何とか搭乗手続きにも間に合って、この老代議士は高齢にも関らず、急ぎ足で飛行機に乗り込んで行ったが、「忙しいから今行くんだよ」と言う言葉は、それから以降も私の中では今ひとつピンと来ない言葉になっていた。
だが、昨夜ニュースで鳩山総理を見ていて、やっと分かったことがあった。
そしてあらためて、あの老代議士は凄いことを言っていたんだなと気が付いた。
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鳩山首相は今しなければならないことを、今やっていない。
そして日本にはこれだけの人がいて、あらゆる人知がありながら、何か大切なことを間違えているような気がしたのである。
今の日本にとって確かに沖縄の普天問基地問題は重要であり、それはアメリカとの関係を考えるなら、また沖縄の住民の心情を考えるなら、一刻も猶予のならない問題に違いない。
しかし今ニューヨークの国連本部で開催されているのは何だと思うだろうか。
NPT、つまり核軍縮や核不拡散を世界的に検証する、5年に1度しか開かれない「核拡散防止条約再検討会議」が開催されているのである。
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日本は世界で唯一の核兵器被爆国であり、これまでも核のない世界を主張し続けてきた。
にも関らず、首相はおろか外務大臣、それにあれほどまでに核兵器の廃絶を訴えてきた社民党、福島瑞穂女史ですら、この会議に参加していない現実は国際社会にどう映ったことだろう。
沖縄の基地問題は3日、僅か3日でも良いから待って貰えない問題だっただろうか、日本が抱える第二次政界大戦の傷後である片方は沖縄基地問題、そしてもう片方は核兵器廃絶への道である。
日本は核兵器廃絶のために主張しなければいけないので、3日で構いませんから待って貰えませんか、そう言ったら沖縄の人たちは絶対許せないと言うだろうか。
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私はそうは思えない、きっとこれは戦争に苦しみ、それから後米軍基地に苦しんできた沖縄の人たちであればこそ、分かってくれるはずだと思う。
そして国連本部で、日本は首相、外務大臣、それから少なくとも護憲、核兵器廃絶を訴えてきた社民党党首ぐらいは顔を揃えて、核兵器廃絶に向けた演説をすべきだと思う。
5年に1度しか訪れないこの機会、それも僅か数日あれば済む事を放棄し、日本とアメリカの2国間の問題に執着した日本の姿は、到底核兵器廃絶を心から願っている国のありようとは見えない。
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この会議で日本が核兵器によって被害を受けたことを取り上げ、真正面からアメリカを批難したのは、イランのアハマドネジャド大統領ただ1人しかいない。
しかもイランはアメリカによって悪の枢軸とまで言われている国である。
その国がいかに自国のために利用しているとは言え、日本のことを言ってくれているのに、当事者の日本は何をしているのか。
もしかしたら、これ以上アメリカを刺激するようなことになれば大変だから、ここは欠席しようと思ったか、それでなければあくまでも国際社会の安定よりも、自国やアメリカの都合を優先したか、どちらにしても余りにも身勝手、かつこれまでの主張との整合性を欠く行為である。
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そしてどうだろうか、こうしたことは言ってはいけないことなのだろうか、実際どの新聞を見ても、テレビを観ても、また私より遥かに優秀な評論家諸氏も、こうしたことを言わない。
私は間違ったことを言っているのだろうか、かの老代議士の「忙しいから今行く」とはまさにこのことではないだろうか。
日本が日米同盟を巡ってギクシャクしていることは世界中が知っていることであり、鳩山総理が大変なことも衆目の事実だ。
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だが、それだからこそ鳩山総理が国連本部で演説することに価値がある。
日本がこれまでずっと訴えてきた核兵器廃絶の道、それを真剣に思っていることが国際社会に伝わる最大の機会であり、今を逃すと今度は5年後にしか訪れない機会、日本はそれを絶対無駄にしない。
それこそが核兵器で一瞬にして蒸発してしまった人、背中や腕の皮膚が剥がれ落ちながら、彷徨って死んで行った人たちに対するせめてもの追悼ではないのか。
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あの老代議士が亡くなってからもう随分の月日が経った。
彼は決して人間的に褒められた部分ばかりの人ではなかった、傲慢なところもあり、権力志向も強い人だった。
それに比べれば鳩山総理は謙虚にも見えるし、誠実にも見える。
しかし、人間にはそうしたものを越えた何かがあり、それがあの老代議士にはあったが、鳩山総理には見えないのである。
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※ 本文は2010年5月6日、yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。