浄土真宗の開祖「親鸞」(しんらん)、彼の教えは、その弟子「唯円」(ゆいえん)が記した「歎異抄」(たんにしょう)と言う書物の中にも顕著に現されてくるが、これがなかなか手厳しい。
即ち、自作自善の善人、つまり本質的にこれは貴族社会を指していただろうが、阿弥陀如来はこうした者たちよりも、日々の暮らしのためには戒めを破らざるを得ず、殺生などを行わざるを得ない下級武士、百姓、女、賤民や罪人、彼らをして尚お救いになる、そうで無くてはならないと説いている。
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またその本質的存在の有無は私には分らないがキリスト教に措ける「悪魔」の存在、そしてこれを実際に見てしまう者が有る現実に対する、一方の現実である「エクソシスト」(悪魔祓い)だが、その信仰の正当性はともかく、一面では彼らこそが最も神の力を知っていると言うこともまた出来うる。
光の偉大さを最も感じる者は闇の中にある者であり、光の中にある者は闇を見通せない、つまり光からは闇は見えないのであって、世の偽らざる現実を知ろうとするなら、そこでは闇を避けて通った者に真実など在ろうはずもない。
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罪とは何か、それはどこまで外に対して影響のあるものかと言えば、その範囲は意外に狭く、例えば人を殺したとしても、それによって影響がある者は殺された当事者とその親族、またはせいぜいが勤務先くらいのものであり、そうした中でも全ての者が殺された者の存在を快く思っていたかどうかは分らない。
それゆえ、これらの者意外は誰が殺されようと全く影響が無く、自身も被害を受けていないのであって、ここで犯人に対して憎悪を抱く必要など初めから存在していない。
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にも拘らず、まるで自身が殺されでもしたかのように犯人を憎むその根拠は何か、そう尋ねられて、まともに答えられる者はいるか、正義か、社会に対する影響か、それが自身の犯人に対する怒りの根拠か、そうではあるまい。
そこに存在するものは「公平感」と言うものであり、自身は日々の暮らしの中で法を犯さず、あらゆるストレスを我慢しながら暮らしているにもかかわらず、それを無視するその在り様に対して憤っているに過ぎない。
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つまり犯人に対する怒り、また犯罪者に対する怒りと言うものは、一つに自身の環境に対する不満であり、またもう一つには自身がそうした事件に巻き込まれたくない、そう言う漠然たる恐れから来るものであり、ここで自身の悪に対する怒りを考えるなら、それは全て「自分」であると言うことを認識しておかねばならない。
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人間と言う生き物はまことに勝手な生き物であり、自身が殺された訳でもないのに、それを咎め犯人を憎む、また「ああ、それは可愛そうだ」と言いながら、その心の底では自分で気付かない内に、事件や事故が大きくなることを望んでいる。
方や意見の対立する相手に不幸があればこれを喜び、親しい者であれば、それがあたかも自分に降りかかった不幸のように考えるが、それらは全て自分の感情でしかない事を考える者は少ない。
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人間は皆平等でなければならないと思いながら、そこで最も平等でない事をしているのがその人間であり、そうした自身が信じる正義や、平等、平和、自由も、実は自分の感情でしかなく、感情は環境とか状況と言ったものの範囲を出るものではない。
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法律を勉強したことがある人ならこの話は知っていると思うが、「カルネアデスの船板」と言う法律がある。
日本では「緊急避難措置法」となっているだろうが、嵐に遭遇して船が沈没し、自分はかろうじて壊れた船の板にしがみついて浮いていたが、そこへもう一人溺れかけた人が、自分のつかまっている板につかまろうとした。
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だがその船板は1人なら沈まないが、2人つかまるとなると沈んでいく・・・、さてこの状況でどうするかだが、法律はこの場合どちらかが、片方の人を船板から排除する事に対して罪を問わない。
しかもここには優先権が先につかまっていた人であるとの制約もない、つまりは力のある者が生き残ることを容認しているのである。
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またこれと状況は違うが、例えば洞窟を探検中にがけ崩れが起こって、そこに6人が閉じ込められたとしよう、この場合でも外に救助隊が来ていて、何時間後に救出できるかが分り、その状況だと全員は助からないが、4人だけなら助かるとしたときはどうしようか・・・。
結果から言えば法は洞窟内部にいる人が2人を殺害する事を認めるだろう。
しかもその人選は洞窟内部の人に一任される。
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そしてこれを読んで、今、自分は絶対そんな事はしない、きっと相手を助け自分は犠牲になる方を選択すると思った人は、その考えを改めたほうが良い。
現在自分が置かれている状況は酸素もあれば、空腹でも無く、穏やかな時間の中でこれを読んでいるだろうから、そうした状況の人間が、緊急事態に遭遇している人間を判断することは出来ず、人間の判断と言うものは、どの状況でも50%と50%のものだ。
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つまりは自分がそうした事態に遭遇したときは、いつでもその状況に対して50%しか確率を持たない、どちらになるかはそのとき、その場に立って見なければ分らないものであり、これが家族や恋人であったらどうする、友人とそうでは無い者だったらどうする、そこにあるものは正義ではなく感情でしかない事が理解できるはずである。
だからこそ自己犠牲を選択した人は偉大なのだが、決してそうではなかった者を責める権利など当事者以外に存在していない。
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「第二章・正義の本質」に続く