「第二章」正義とは

またここまでのことが無くても、自身が極貧であって、行く先に1万円札が落ちていたら、それを交番に届けられるだろうか。
おそらく大方の人間はそれを交番に届けることは出来まい。
にも拘らず大方の者は自分が被害を被ったわけではないにも拘らず、それをあたかも自身が聖人君子のように人の罪を断罪するが、こうした思いの中に自身に対する恐れを抱いた事など無いのである。
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人が正義を振りかざせると言う事は、唯その自身が、そうした自身が考えている正義を貫ける環境にあると言うだけのことであり、環境が変わってしまえば、それらは炎天下の淡雪の如くに儚いものである。
それゆえ、自身がそれを守れたからと言って、人を責めるのは大きな間違いであり、傲慢と言うものだ。
たまたま運良くこちら側にいられただけで、反対側に落ちた者を、しかもそれが当事者ならともかく、そうではないにも拘らず、責めるように正義を振りかざす者こそ、親鸞の言う「自作自善」をも超える愚かさと言うものだ。
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また中途半端な「正義」や「善」は人を傷つける。
そこに発生してくるものは、自身がそれを守れる幸福な環境である事を忘れた、即ち感謝を忘れた善であり正義でしかなく、唯浅い知識で人を我が意に従わせようと言うだけのものでしかないが、それでもそれに従わねば不快になって「あれは何もわかっていない」となるが、一番分っていないのはその当人である。
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罪とは誰のものか、それは罪を犯した本人のものであり、かかわらざるを得なかった関係者のものであって、しかも罪はそれを犯した本人がそれを思わない限り、そこに存在すらできず、これをかろうじて存在せしむるのが「法」と言うものである。
従ってこれを他人が断罪したところで、そこには何の意味をも持たないどころか、断罪するその者の感情を満たすだけの行為が、繰り広げられているだけなのである。
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鑑みて、今を騒がす大相撲の賭博問題だが、少しばかり過ぎたものが有るように思えてならない。
評論家はおしなべて許せない、浄化すべきだと言うが、彼らは何が許せないのか、力士が賭博をして彼らに一体どれくらいの損害があったのだろう。
また力士は彼らからどのくらい大きな希望を奪ったのだろうか。
確かに文部省管轄であるから、国民の税金も使われただろうが、それは国民1人当たりどのくらいのものだろうか。
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おそらく大したことも無いものの割には、大変なことをしてくれたように言うのは違和感がある。
伝統文化は国民の希望や規範だと言う者がいるが、では振り返ってその者が暮らす環境の中は、いつでも正しい事のみで動いているだろうか、そうではあるまい。
だとしたら同じ人間が運営している世界でそれを求めるのは、自身が努力せずに人にのみ、自分が信じる正義を求めていることにならないか、もしかしたら自分がカエルであることを忘れて、バケツの中から「俺は偉いんだ、他の奴とは違う」と叫んではいないか・・・。
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もし自身が信じる正義があるなら、善が在るなら、それは人を責めるために使うものだったのか、それは違うだろう。
「善」や「正義」は感情だと私は言った。
だからどこまで行ってもそれは本来人に対して向かっているものであり、決して「他」に向かうべきものではない。
つまりは「善」、「正義」とは自分が実践すべきものであり、人を責めるためのものではないことを今一度考えて欲しいものである。
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悪いことをすればそれは「法」が裁くのであって、民衆が人を裁いてはならないし、もしそうした社会が現れるなら、それは「リンチ社会」と言うものだ。
大相撲の力士達、また協会を裁くのは「法」であり、視聴率を上げるために事を煽っていく報道、またそこに寄生する評論家や御用学者の出演料を上げるために「罪」が使われるなら、その「罪」を利用した者達の「罪」の方が、大相撲の賭博など比べ物にならないほど大きく、また計り知れないほど愚かであるように私には見える・・・。
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人の不満と言うものはその時、自分が忘れられている。
だがそこで語られる事は、どこまで行っても自分でしかないものだ・・・。