「かくも獣の如く巨大な化け物が、野蛮人そのものの姿にて、獰猛に睨み会う様を見ていると、これが既に人間だとは思えない。
もはや野獣が血に飢えて対決するが如くの有様は狂牛とも言うべきものであり、その性質のみならず姿形に措いても、まさにそれである」
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おそらくアメリカ人で初めて日本の大相撲、そのぶつかり稽古を見たのは、黒船で有名なマーシュ・ぺリー提督だったと思われるが、そのときの様子をペリーが記録したものが上の記述である。
如何に驚嘆したかがその記述から伺えるが、もう一つ、どこかで負け惜しみに近い悔しさも滲んでいるような気がしないだろうか。
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圧倒的戦力と科学力、また物量で日本に開港を迫ったペリーの黒船一行は、当時の日本に絶望的なほどの不安を与え、これに幕府も唯萎縮するばかり、またその船から下りてくるアメリカ人は日本人より20cmも高い身長に、大柄な体躯であり、これをしてもまこと恐怖におののくばかりであった。
だがこうした事態に、敢然とアメリカ人にその日本の何たるかを示した集団があった。
今夜は昨今評判よろしくない大相撲だが、かの相撲が日本に希望を与えた時代の話でもしておこうか・・・。
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1853年(嘉永6年)、初めてアメリカのペリー提督の艦隊が日本に寄港したとき、上は幕府から下は野良猫まで大慌てとなり、ただ右往左往するばかり、また逆らおうにも沖に見える黒船艦隊を考えれば到底逆らう気力も起きず、またペリー提督も大変高飛車な態度で、幕府に日米和親条約を突きつけ「また来るからな・・・」と言って去って行った。
だがこうした当時の日本、そして困窮した幕府に対して早い間から、「自分たちにも何かできることがないか、何でも良い手伝いたい」、そう意見具申していたのが江戸の大相撲力士達だった。
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そして1854年(嘉永7年)再度日本を訪れたぺリー提督一行、この時幕府は日本を代表するアトラクションとして、横浜の接見式で日本の大相撲力士達を披露する事にしたのだが、これが大変なことになって行く。
1854年2月26日、その日ペリー以下、艦隊の乗組員達の目の前で繰り広げられたアトラクションは、幕府企画の力士達による米俵運びだった。
この時こうした力士達をまとめていたのは名大関「小柳常吉」だったのだが、ペリーたちはこの日本の大相撲力士達を見て度肝を抜かれる事になる。
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米俵と言うものは1つの重さが60kgと決まっているが、力士達はこの重い米俵をまるでお手玉の様に軽々と持ち上げ、両手に1俵ずつ持ち上げる者、そのうえ口にも咥えて3俵を運ぶ者と言う具合で、しかもそれを船まで80mはあろうかと言う距離を運ぶのである。
米俵1俵を二人一組で運んでいたペリー艦隊の水兵たちは、この光景に我が目を疑った。
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また「白真弓」と言う力士、彼はその名を「肥太右衛門」と言い、飛騨出身の21歳の力士だったが、彼は身長2m7cm、体重は150kgで、江戸の大相撲界随一の巨漢だったが、この力士に至っては何と米俵8俵を担いだと言われている。
1俵が60kgだから、白真弓は何と480kgの米を担いだ事になるが、この企画の力士側のまとめ役、大関の「小柳」もこの時背中に3俵を担ぎ、両手に1俵ずつ持ったと言うから、合計5俵、総重量300kgを担いで80mの距離を運んだのである。
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さあ、これに騒然となったのはアメリカ海兵隊である。
文字通り驚嘆で大騒ぎになり、このアトラクションが終わって、力士達のぶつかり稽古のアトラクションを見た感想が、冒頭のペリーの記述なのである。
そしてこれを見た海兵隊員たち、自分たちより強い者、勝っている者の存在が許せない彼らは、こんなアジア辺境の弱小民族国家でこれを見せられた事から大興奮となり、このまま黙って引き下がったのでは海兵隊の名折れだと言う事になっていく。
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早速海兵隊員の中から屈強の若者15人が選ばれ、彼らをして力士達に挑戦させてもらえないかと言うことになって行った。
この申し出に対して江戸大相撲の実力を目の当たりにした幕府、これは少し偉そうなアメリカ人達の鼻をへし折れるかも知れない、そう思ってこの申し出は「良かろう」と言う事になる。
かくて世界初の、日本の大相撲対アメリカ海兵隊の対決が始まるが、相手をしたのは「白真弓」と「小柳」だけだった。
だがそれでも小柳の出番は無かった。
白真弓は屈強な海兵隊員をバッタバッタと張り倒し、投げ捨てていき、あっと言う間に勝負が付いてしまう。
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これに対して諦めきれない海兵隊員たち、今度は海兵隊の中にいるレスリングチャンピオン、そしてボクシングチャンピオン2人の合計3人で、小柳に挑戦したいと言い始めるが、通訳からこの話を聞いた小柳は黙って頷く。
小柳は体重こそ150kgだったが、身長は170cmくらいしかなく、明らかに屈強なアメリカのチャンピオンたちから見ると劣勢に見えた。
このことからセコイ話だが、3対1なら勝てると踏んだ海兵隊のチャンピオンたちは、一斉に小柳に飛びかかって行ったのである。
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まず1人が小柳の顔をめがけてパンチを繰り出すが、それを紙一重のところでかわした小柳、右手でバランスを失って体勢を崩す相手の背中に張り手を入れて、地面にはたき込むと、次はボディブロウを狙って突っ込んで来る2人の内、片方の男の首をつかんで羽交い締めにしたかと思うと、もう一人の男の腰ベルトを片手でつかむと、足を蹴たぐって、何と片手で持ち上げてしまったのだ。
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何とも壮絶な光景であった、最初にパンチを入れに来た相手を地面に踏みつけ、片手で大男を吊り上げ、そしてもう一人の大男は首を羽交い絞めにして、まるで歌舞伎の「みえ」を切ったようなポーズをしていたのである。
その間、僅かに10秒ほど、これを見た海兵隊員たちは、流石にもう力士達に挑戦しよう言う者はいなくなっていた。
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「小柳常吉」は千葉県市原の百姓の出身だったが、当時名伯楽との誉れも高い横綱「阿武松親方」(おうのまつ・おやかた)の部屋で「大関」在位7場所を努めた名力士だった。
安政3年に引退するが、2代目阿武松親方を襲名して、多くの弟子の育成に尽力した。
安政5年死去、享年42歳だった。
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ペリー来航で全てに措いて自信を失い、また将来に対して不安を抱いていた江戸の人々、彼らはその決して優勢とは言えない体格で、しかも多くの海兵隊員達を打ち破って行った小柳や白真弓たちの活躍に狂喜乱舞し、何となくどうしようも無いこの時代の日本の先行きに、僅かだが全てが劣っている訳ではない、そう信じるに足るものを見て行ったのである。
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そして国技とは、こうした在り様のことを言うのである・・・。