「天目模様」

技術の確定には2種の大別が存在し、その1つは「こうしたらこうなった」と言うものと、もう1つは「そうしようと思ってそうした」と言うものである。

この違いはどう言う違いかと言えば、その技術の中に自然形成の要素が入るかと否かと言う事であり、例えば先般真贋を巡って話題となった「何でも鑑定団」の「曜変天目茶碗」などは「こうしたらこうなった」であり、これを漆器などで作って天目模様を蒔絵で描けば「そうしようと思ってそうした」になる訳である。

曜変天目は失われた技術だが、この技術は100%人間の言う事を聞く技術ではなかっただろう。

土や火の勢い、釉薬が焼成される過程の偶然を利用したもので、例えば100個焼いたら100個とも成功するものではなく、その内半分くらい見れる程度になるようなものだったに違いない。

技術の確定には100%の原因、因果関係の解明の必要性は無く、例えばそれが製造される過程で理由が分からない部分が含まれても100回の内1回でも良い、それが必ず出現してくれば技術の確定となる。

だが100回同じ事をして時には50個成功するが、40回ほどは同じものができないと言う場合は技術の確定には至らない。しかし人間の価値観と言うものは、より少ないもの、より困難なものを求める為、実はこうした技術の確定が難しいものほど価値観が出てくる。

人間の美的感覚はそれに従う、反発するにしても全て自然や眼前の現実を中心としている。

為に、自然形成、つまりは偶然の部分が多いほど工芸としての価値観は大きくなり、偶然の要素が少ないものはその狭い世界の中では価値を持つが、大局的、全体からすると相対的価値観は低くなる。

ここに曜変天目茶碗が存在したとして、これを漆器で作って、蒔絵で天目の模様を描き込んだ場合、確かに精巧な技術は素晴らしくても贋作である事を免れない事を考えるなら、この自然形成の価値観と人工形成の価値観の違いは明白になるかと思う。

ただ漆と言う素材は、それ自体人間が全てコントロールできる技術ではない。

漆は常に自然形成の要素の中にあり、これをフルに使うなら確かに漆は価値観を持つが、この自然形成の部分を隠れ蓑に100個作ろうと思えば100個とも同じものが作れる技術を売っているのが今の漆器産業の現実かも知れない。

分かり易く言えば漆の一番の価値観を離れた所で、一番価値観の低い所で右往左往しているような気がする。

ちなみに曜変天目模様は漆器でも、蒔絵で描かなくても自然形成させる方法が存在する。

詳細はまだ改良の余地があるので控えるが、実はとても簡単な方法が存在し、そのキーワードは「水」であり、「水」のどの状態をどの工程で使うかによっては天目模様は自然形成される。

またこうして漆器職人などをやっていると、どうしても漆を中心に考えてしまいがちだが、例えば砥の粉を漆に混ぜて使う「サビ漆」にしても、主体が漆にあるのか砥の粉に有るのかと言う事を客観的に考えるなら、漆は砥の粉の添加剤とも言えるのであり、サビ漆の特性は40%が漆、60%が砥の粉の特性となっている。

つまりここでは砥の粉を使うと、その特性は同じ粘土と言う土でできた陶器の特性に近くなるのであり、陶器は焼成乾燥だが、漆器は常温乾燥と言う違いだけと言う現実があり、ここで水をどう使うかに拠っては漆器もまた陶器と同じ風合いに仕上げる方法が簡単に存在し、こうして水と言うキーワードで繋がった漆器と陶器は、水によって漆で天目模様が形成されるなら、もしかしたら曜変天目茶碗の天目も水が関与していたかも知れない。

或いは釉薬をどう言う状態、形態で使ったかによって、もっと言えばどの液体をどう使ったかによって形成されたものだったかも知れない事を思うのである。

飛躍し過ぎたか・・・・(笑)