「さいくら」(餅お講)

輪島市の市街周辺町村では、新年が明けた1月3日から1月7日までの間、一部の地域、一時期は1月15日間までの町村も在ったが、正月前に各家で作った餅、水羊羹、串柿や小豆、豆などの雑穀などを「せり」にかけ、その代金を元に「お講」を開催するしきたりが有った。

その呼称は地域や人に拠って異なるが、「餅お講」と正規の発音で呼称される事は少なく、一般的には「もちおこう」の最後尾、「う」が省略され「もちおこ」と呼ばれる地域が多く、「せり」の掛け声が「さあ、幾ら」だった事から、これが省略されて「さいくら」と呼ばれ、やがてこの俗称が「せり」の掛け声になった地域も存在した。

輪島市三井町の山村、「仁行」(にぎょう)では現在もこの「餅お講」の風習が残っているが、1月4日のこの行事の呼称は「さいくら」である。

「お講」の始まりはその多くが実は宗教的衰退に関係している。

真宗王国と言われる能登に措いてもそれは免れず、真宗500年の期間中には幾度も村民の関心が薄れてしまいそうになった時期が存在し、その原因の多くは飢饉や困窮ではなく、ある程度の豊かさだった。

飢餓や困窮は宗教を鋭くするが、若干でも豊かさが残ると宗教は堕落して行く。

ここに宗教的慢心、「まんねり」が発生してくると、どうしても人の集まりは悪くなる。

そこで「お講」に射幸心を煽る要素、「楽しめる」要素を織り込んでいく事になるが、「たのもし講」などはまさにそれと言えるものの、これは中期の「まんねり」に対応したもので、その初期に発生した対策が「餅お講」などの「寄進講」である。

正月に各家が餅や雑穀、漬物などの現物を持ち寄り、これを「せり」にかけて金を作り、その金を元に著名な僧侶を呼んで、美しい読経を聞く、或いは高僧の説話を聴くシステムだが、基本的にこの「餅お講」は「百姓講」である。

餅一臼の米は「二升」を一つの単位とし、為に大きな鏡餅は「二升」「四升」「六升」と言う形で大きくなって行くが、ここで縁起が悪いとされ偶数升を避けるなら、餅米を蒸す時にかまどが2つ必要になり、ついでに餅米を栽培していなければ餅も作れない。

小豆や豆も同様で、「餅お講」そのものが農村の「お講」だったと言う事になる。

各家から拠出されたものは「大きな鏡餅」、一粒々々手でより分けられた小豆や豆、これも基本は二升だが、現代で言うならパッチワークとも言える、綺麗な着物の端切れを組み合わせて縫い合わせられた巾着に入れられ、この場合は巾着の値打ちを含めた値段だった。

さらに貴重な「砂糖」を使った水羊羹、5個の皮を剥いた柿を竹串に刺し、それを囲炉裏の近くでいぶして作られた「ころ柿」などは、この一串を5串わら縄で繋いで一連とし、二連を一つの単位でせりにかけられる。

或いは珍しい反物、「どんこ」と呼ばれる袖なしの綿入り、酒やきのこの漬物など、各家がその威信をかけて作った品々が「さいくら」「さいくら」とせりにかけられ、その代金を元に精進料理だが馳走を食べ、酒を飲み、寺や僧侶に寄進する金を作った。

近世の社寺は住民統治台帳、納税台帳の仕組みを持っていた為、こうした社寺仏閣の衰退は台帳収支の上からも、統治者に取っては都合が悪かった。

それゆえ本来なら射幸心を煽るものは「籤」に通じ、「せり」などは独自市場に通じる為、統治機構としては許し難いもので有っても、許容、若しくは消極的推奨状態となっていた。

「仁行」の「さいくら」も現代では往時に比べ参加者は20分の1ほどに衰退し、その昔は市街からも大きな鏡餅を求めて集まっていた賑やかさは片鱗すらも見ることはできない。

また参加者の多くは70歳以上の高齢化となっていて、寄進物も免責となっている1000円を払って代物とする形の者が殆ど、それもいつまで続くかは解らない状態である。

「餅お講」だが、鏡餅などは数枚しか出て来ない。

この村で米を作っている人は5、6人、しかもその内餅米を作っている人は1人か2人しかいない・・・。

もはや宗教上の慢心どころか、百姓がいないのであり、人そのものがいなくなったのである。

餅など家には山ほど有る、だから水羊羹やころ柿が「さいくら」「さいくら」と叫ばれると、母親の横で「これを落してくれ」と心で祈っていたが、こうしたものは落札額が高い事は解っていた。

母は初めから一度も手を上げずに、水羊羹が他の家の者に流れていくのを羨ましそうに見ていた幼き頃・・・。

今は水羊羹くらい金を出せば腹が痛くなるほど食べれる。

しかし、あの食べれなかった水羊羹が食べたかった。

もう永遠にあの水羊羹は食べる事ができない・・・。