この表題を見て解る者は雪国の者、米を作った事の有る者に相違ない。
おそらく俳句の季語には載っていないだろうが、百姓かこれを出自にするか、その地で育まれた者の、春の季語である。
田に雪が降り積もると、畦の部分だけは田の中よりは高い事から、暖かくなって雪が解け出すと、畦の部分だけが先に雪が解けてくる。
白い雪原に始めは1本、その角が繋がって2本の交差した土の部分が顔を出し、やがてそれは田の形どおりの輪郭になって白一色の世界に形をもたらす。
この状態を「畦が切れてきた」と言うのであり、長い冬がようやく終わりを告げた事を意味していた。
私の住んでいる三井町は豪雪地帯であり、冬には厚い雪に閉ざされる。
11月の嵐に始まって、2月か3月の嵐に拠って冬は終わるが、こうしてそれまではどこまでも続いていた雪景色の中に、高い部分から白い色が切れ、やがてそこには「つくし」や「フキノトウ」が飛び跳ねるように生え、暫くすると蓬なども広がって、気が付けば辺り一面色んな緑が繁茂する大地になって行く。
この春の喜びは、その雪の深さが有って解るものなのかも知れない・・・。
「おお、畦が切れてきたな・・・」
「種籾を見とかにゃなるめー」
嵐が去って暖かくなった日差しの中、私が子供の頃は、多くの村人がこの「畦が切れる」を見て田畑の用意を始めねばと、話していたものである。
穏やかな日差しは人々の顔を優しく、嬉しそうな顔にし、子供たちもまたおおはしゃぎだった。
いつまでも寒かった今冬も、やっと終わった。
あちこちで切れてきた畦を前に、長い事見れなかった穏やかな太陽の光はまぶしく、私の顔は少し悲しげ見えるか、それとも笑っているように見えるか・・・。
何が有っても必ず春はやってくる。
いかに絶望に打ちひしがれようと、どんなに辛い事が有ろうと、全く関係なく季節は移ろい、生まれてくるべきものは我先を争うように生まれてくる。
何と、大きく有り難いものなのだろう。
顔を出してきた畦を眺めながら、遠い昔、子供の頃を思い出していた私は、いつの間にか隣に来て座っている猫に「畦が切れた」「春が来たぞ」と話しかける。
猫は少し眩しそうな顔をこちらに向け、声を出さずに一声だけ啼いた・・・。