生まれ、また生まれ、死んでまた死ぬ。
生物はどうしてこうも果てしなく生と死の連鎖を続けるのだろうか、その生まれたきた意味は、存在することの意義は何なのか、三浦和義と言う人物を考えたとき、あらためてこうした思いを深くさせられる。
1981年11月、ロサンゼルス市内で三浦和義氏の妻、一美さん(28歳)が何者かに頭を銃撃され1年後に死亡、三浦氏も足に銃撃を受けた。
当時今ほど頻繁に海外旅行などできない時代、その余りにも一般庶民とかけ離れたブルジョアな匂いと甘いマスク、それにヘリコプターで搬送されてきた若い妻の名を涙ながらに呼ぶ三浦氏の不運なヒーローぶりは、まるで小説の世界を彷彿とさせたものだった。
そして帰国後、病院で足の治療を受けているときから、三浦氏には疑惑の目が向けられていた。
やがて妻が死んだ後、保険金1億6000万円が三浦氏に支払われたことが公になると、その疑惑は頂点に達し、取材記者や一般大衆の妬みもあいまって激しい攻撃へと変化、三浦氏に集中した。
またこうした疑惑の中から三浦氏がこの銃撃を受ける3ヶ月前、妻をロサンゼルス市内のホテルで知人に頼んで襲撃させていたことが発覚、1985年疑惑の人として逮捕された。
その後裁判では妻の一美さん襲撃事件では有罪となったものの、殺害に関しては2003年最高裁で無罪が確定した。
三浦氏は有罪となった一美さん襲撃事件で実刑を受け服役した。
ところが、それから5年も経った2008年2月22日、サイパンにいた三浦氏はロサンゼルス市警の要請を受けたアメリカ自治領サイパン警察当局によって身柄を拘束される。
その拘束理由は27年前の一美さん銃撃事件共謀罪の容疑だった。
そして10月10日、実に7ヶ月に及ぶ拘置期間を経て三浦氏の身柄はロサンゼルスに移送、翌日10月11日午後2時、ロサンゼルスの拘置所内で三浦氏は着ていたシャツで首を吊り、自殺した。
三浦氏は1985年日本で逮捕された当時から一貫して一美さん殺人容疑に対して無罪を主張し、サイパン当局に身柄を拘束された時も、日本の最高裁で無罪が確定している事を主張し続けていた。
結果として一美さん殺人に関しては、その真実をすべて三浦氏があの世まで持って行ってしまった格好になった。
だがこの結末を知った日本人の多くは言葉にできない複雑な心境に陥ったに違いない。
裁判には「一事不再理」(1度裁判で罪が確定したものは、同じ罪で裁けない)と言う原則があるが、ロス市警のオーバーランはこれだけにとどまらない。
すなわち、日本の最高裁で罪が確定し、服役を終えた者がもう1度アメリカの法律で裁かれると言う理不尽さだ。
日本で裁判を受けても、もう1度アメリカの裁判を受けなければ罪が確定しないなら、日本の法は必要がなくなるのと同じことなのだが、国や司法、検察当局まで「アメリカの捜査に協力します」と発表したのだ。
国家が自らの責任で裁いた者を同じ罪で他国が裁くことを容認する行為は、その国家が国民を見捨てたことを意味する。
またこの三浦氏の事件の数日前、イギリス人男性が全裸で皇居のお堀を泳ぎ、石垣を崩したが、それでも無罪放免になった事件があった。
これが日本人だったら同じように無罪放免になっただろうか、いや同じことを日本人がエリザベス女王の宮殿前でやったら、イギリス警察当局は笑って許してくれただろうか、イギリス国民は黙っていただろうか。
こうして考えて見ると、三浦和義と言う人物、確かに彼には疑惑が残っていたし、もしかしたら妻の殺人にも関わっていたかも知れないが、彼が無罪であること、無罪であり続けたいことを選択し、それを成し得る術が自殺しかなかったことは日本人として痛恨の極みである。
それと同時に彼はおそらく意識していなかったと思うが、日本の法の権威、その独立性はくしくも彼の自殺によって紙一重のところで担保されのだ。
その奇異な行動、人間性を言えば問題も多かったのかも知れない、またいかなる理由があっても自殺が称賛されてはいけないし、それが称賛される社会も望まないが、拘置所で彼は何を考えただろう。
ただ絶望しかなかったとしたら日本人として申し訳なかったと思うのである。
イーグルスの名曲ホテルカリフォルニア、そのボーカルが終わった瞬間から、疾走する車のような激しくも切ないギターの間奏が始まる。
1981年ロサンゼルス銃撃事件が報道された当時、大人の匂いがするこの事件とホテルカリフォルニアのギターは妙に重なり、若者たちの心を駆り立てた。
この37年の歳月とはいったい何だったのだろうか、私たちは何を失って何を手に入れたのだろうか。