「邦人の安否」

2008年6月16日、テヘラン発共同通信は、この前年10月7日にイラン南東部の古都を旅していた途中武装集団に誘拐された中村聡志さん(23歳)が8ヶ月ぶりに解放されたことを伝えた。
イラン外務省で報道機関を前に、イラン政府や日本政府などに感謝すると共に、御迷惑をおかけして申し訳ございませんでしたと何度も頭を下げた若者の姿は何とも爽やかで、日本にもこんな若者がいたのだと思うと少し誇らしくもあった。

イラク戦争開戦直後、外務省の注意も聞かずイラク入りし、武装勢力に誘拐され救出されたときのあの若者達の態度とは大きな違いである。
またこの時は「日本が国家を挙げて人質を救うのは当たり前だ」と言うような誘拐された家族側の態度も問題になったが、中村さんの父親の姿は、子供を思う父としても納得できる態度で、人間的におごったところのない節度あるものだった。

解放に至った経緯に付いては武装勢力の要求は一切受け入れていないとしたが、イラン、日本の両政府、いろんな勢力が絡んでいる以上、こうした経緯に付いては説明できないのが普通である。
ただ思うことは、この青年がきっと自らをして自身を救ったのだろうなと言うことである。
武装勢力と言えども人間である、たとえ人質だったとしても、その人となりは真剣に闘っている者ほどより多くのものが見えたに違いない。
この若者を殺してはならない、と思う気持ちにさせられるものもあったはずであり、自身が信じる宗教上のプライド、イランという国家としてのプライドを今一度思い起させたかも知れない。

また感情を抑え、どんな事態にも礼節を忘れず、決して諦めない父親の姿は多くのイラン長老達に「何とかして助けよう」との思いを強くさせたことだろう。
全てはこの若者の有り様、しいては彼を育てた両親の有り様が、難しい事件を解決に向わせた大きな要因のようにも思えるのである。

イランと日本の関係は意外に深い。
1979年パーレビ国王を打倒したイスラム最高指導者ホメイニ氏の時代でも、石油調達の為にアメリカの目を盗んでイランとの経済関係を続けてきた日本は、イラン、イラク、パレスチナなどの中東諸国間では少なくともアメリカやEUよりは許される国でもあるのだ。

1990年8月2日、イラクがクウェートに侵攻し、翌年1991年1月17日、アメリカ主導で「砂漠の嵐作戦」が発動、湾岸戦争に及ぶことになったときも、日本はイラクのフセイン政権とは経済的関係でアメリカやEU諸国よりは親密な関係にあった。
だからイラクがクウェート侵攻後、外国人を全て国内に留まらせ人質化したとき、アメリカやヨーロッパ諸国と同じ扱いを受けた日本の駐イラク外交官の1人は「日本はイラクに対してこれまで欧米よりは親密な援助協力をしてきた、同じ人質でもアメリカやヨーロッパ諸国より優遇された扱いを求める」と抗議するのである。名前は忘れたが、なかなか骨のある外交官だった。

だがブッシュ大統領(2008年現在のブッシュ大統領の父)に引きずられ、石油の利権欲しさに日本は湾岸戦争の戦費の大半を拠出し、その挙句戦争終了後クウェートが日本に示した感謝の意向は「そう言えば忘れていた」くらいの苦いものになったことを憶えているだろうか。

そしてもう1つ、アメリカに敵対する国や民族にとっては日本と言う国は少し特別な国でもあるのだ。
キューバ革命でカストロと共に戦ったチェ・ゲバラは革命成立後、早い時期に日本を訪れている。
当時直接会ったのは2008年に首相を務めた福田氏の父親、福田赳夫氏だが、30分ほど会って、素っ気なく帰している。
だが、こうした日本の扱いにも関らず、チェ・ゲバラはたいそう喜んで帰国したと言われている。
その理由は、勿論当時砂糖の大量輸出先が日本だったことも去ることながら、日本と言う国が世界で唯一アメリカと戦争をした国だったからである。
テロと戦争は凡そ概念の異なるもので、アメリカに直接戦争を仕掛け、その領土の1部を空爆した国は後にも先にも日本だけなのである。

だから現代社会にあってもこうしたアメリカを敵対視する民族や国にあって、日本神話はどこかでその人達の心の中に希望として残っているのである。
イスラム原理主義、中南米の武装集団、アルカイダ、こうしたテロ集団や革命家の中では僅かかも知れないが、日本人は国家ではなく民族としてアメリカに戦争を仕掛けられる心を持つ民族なのだと言う憧れが残っているのである。

中村さんを助けたものの中には意外かも知れないが、こうした過去の日本が犯した
過ちや、失敗に次ぐ失敗を繰り返した中東政策でさえどこかで僅かだが幸いしたのではないだろうか。
だが、これから2ヶ月後、8月26日、アフガンで拉致されたNGOペシャワール会の伊藤和也さん(31)は残念ながら殺害されて発見された。

その後この事件に関しては報道機関も一切伝える事はなくなったが、遺体の状況からどうやら伊藤さんは拉致される途中、助けるために武装勢力と応戦した村人が発射した銃の流れ玉に当たって負傷、それで犯人グループが放置していったため死亡した可能性が高い。
不幸な事件となってしまったが、中村さんと伊藤さんの明暗を分けたものは、一つはイランとアフガンと言う国、国家情勢の違い、そして予期せぬ事故の発生だったのではないだろうか。

今イランがアメリカやEUと交わした協約からアメリカが離脱し、関係が悪化しようとしている。

アメリカがパレスチナをめぐってイスラエルを支持し、日本にも同様の対応を取ることを強要した時、オイルショックを覚悟の上でこれに対抗した田中角栄政権、その要因は石油の確保だったが、古来より軍は何の為に動くかとするとき、その応えは国利、「利」の為であり、「利」は徳目の8割を乗せて行く車のようなもの・・・。

命の恨みに次ぐ正当な理由と成り得るものである。

アメリカの顔色を伺っているのではなく自国の石油を確保し、今こそアメリカとイランの間に入って、世界の平和の為に力を尽くす事が出来る、チャンスと言えるのではないだろうか・・・。