| 実は何をして生きているか、何をもって死んだとなるかは良く分かっていない。 人間だけではなく凡そ全ての生命は始原生殖細胞と言う設計図によって作られてくるが、この細胞は親から子へ、その子どもへと少しずつ情報を変異させながら繋がっている。だから見方を変えれば生物はこの始原生殖細胞の連続する器とも言える。 そしてこの細胞の不思議なところは、生まれる前に、男か女を決めている点であり、こうした事はその生物の機能的運命が生まれる前に決められていることを意味している。 つまり例えば女性が一生の間に排卵する数、男性が一生の間に放出する精子の数は、少なくとも女性に関しては生まれる前から数が決まっていて、男性に関しても凡そだが決まっている。 男女とも生物機能的な運命は生まれる以前、もしかしたらそれ以前から決まっていることになるのだ。 そして生殖に関しては環境、例えそれが人為的なものであっても、生殖機能はそれに順応する。 また30年ほど前のブラジル、ここでも貧しい人達が住む地域では10歳未満の出産が他の地域よりは多かった事が知られていて、早い出産例では9歳の女の子の出産例がある。 人間の体は個々だが、それが人類と言う一つ大きな流れの中では或る意図をもってコントロールされているか、自主的な調整がされているように見えるが、こうした傾向は他の生物でも同じ事が言え、始原生殖細胞を大きな流れとして考えると、全ての生物は基本的に生殖可能な範囲が寿命で、それ以後は「まる儲け」と言うことになる。 その意味では個々の人間が「自分が、自分が」と言う考えをもっていたとしても、どこからどこまでが自分で、どこからどこまでを生きているか、死んでいるかと言う区切りはつけられないのである。 そして「死」は常に「生」と表裏一体のものだが、生物は自身に死が訪れた時、何も感じないかと言うとそうではない。 これは始原生殖細胞の話しにもどるが、非常に運命的な要素を秘めていて、もしかしたら始原生殖細胞は生まれる前から凡そその個体生物の寿命を決めているかもしれないからだ。 生物の生体機能を管理しているのは「脳」だが、この脳は恐らく自分で意識できて知る範囲以外、つまり自分が知ることの出来ない自分を持っている可能性は極めて高く、その中に「死」を含んでいないとは断言できない。 |