「正法眼蔵を見よ」

空海は生と死、生と滅の実際をこのように現した。
三界の狂人は狂なることを知らず。
四生の盲者は盲なることを識らず。
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く 死に死に死に死んで死の終わりに冥し・・・・と詠んで、「生をあきらめ死をあきらむるは、佛家一大事の因縁なり」と「道元」は続けた。

道元の母は、もと左大臣の藤原基房の娘で旭将軍、木曽義仲の縁者でもあり、父は権力の中枢にいた関白、久我通親(こが・みちちか)であったが、道元3歳にしてこの父を失い、8歳にして母も失った。
「我れ始めてまさに無常によりて聊(いささ)か道心を発し」と言う言葉には権力闘争をまじかに体現し、氏族の興亡を目の当たりにしてきた道元自身の無常観がそこに現されている。

時は栄華を誇った平家一門が源頼朝軍に壇ノ浦で破れ、西海に安徳帝を抱いて滅亡してから18年、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・」の平家物語、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず・・・」の方丈記、鴨長明(かもの・ちょうめい)の時代で、この鴨長明が没した頃、道元は比叡山で修学中であったが、西行の無常観は高い山から海を臨むような大局的な無常観、鴨長明は河の岸辺から無常と言う流れを望見しているのに対し、道元のそれはまさに「無常と言う河の流れの中、海のなか」にいる無常観であったように思う。

そして道元の仏法(教え)は始めから終わりまで無常が根底にあり、「無我」をして貫徹されていて、例えば仏教の歴史や経緯と言ったものは一切排除され、釈迦の教えを「いま」「ここで」が説かれている。
だから、その表現に置いても、言葉としての清らかさと、そこに絶対こうだという力が満ち溢れている。
「そも、仏法の・・・」と始まるその口調は決定していると言う意味であり、そこに道元の心と祈りがあるのだ。

また道元の根底には「人は理で仏法を信じるのではない」と言う思いがあったのではないだろうか、飢餓の苦しみにある者が求めるものは「教え」ではなく、一杯の水であり、一握りの米であろう、死に臨んだ病の者に「教え」や「理」では間に合わない。
そこに求められるのは仏の優しく温かい御手ではなかっただろうか、そしてそれらは基本的には「神」としての概念を持ち、永遠の存在として信じられてきたが、観世音菩薩しかり、地蔵菩薩しかり・・・・しかし、こうしたものは例え心の安らぎにはなり得ても「生きる力」にはなり得ない。
即ちここに道元があるのである。
「いま、ここで救われない者は、どこで救われると言うのか、自分以外に誰が救うと言うのか・・・」彼はそう問いかけている。

観世音菩薩や地蔵菩薩、その他現世に置いて御利益があると信じられてきた対象は、所詮ただの幻想に過ぎない事は仏法の原則である「諸行無常」「諸法無我」によって明白になっているが、この二つの大原則には問題があって、その問題を問題たらしめるものが仏法にあるのではなく「人間」にあるとしたのである。
人は、特に世俗はこうして「神」の如く永遠かつ万能な仏を信じると共に、内なるもの、つまり自身の最も深い所においての自身に善なる存在、神や宇宙に通じる大いなる生命を持つことを信じ、こうした古いインドで主流となった考えから、苦行をしてあるいは禅で煩悩に満ち溢れた「肉体」から、欲望から解放されようと考えるのだが、
その実体が冒頭の空海の言葉である。

つまり何も無いのだ。
永遠の存在であるもの、現世で見ているような仏も神も無く、自己存在の根拠、自己が存在する理由としての内なる自分、大宇宙と繋がる自分もまた存在しないのだ。
だから人は生きること、存在することに根拠など無いのであって、ただ生まれて死んでいくだけなのだ。
これは言葉で書けば何となく分かったようになるかも知れない、しかし人は滅び行くことを知っていて尚、その根底に「永遠にかかわる何か」を求め、信じようとする。

人は、感情や情緒の中で「無常」に付いて知る事ができるし、理性や言葉として「無常」のなんたるかも心得ている。
けれど「生の事実」は「生について」の感覚や情緒でもなく、理性やことば、観念ではない。
それは私たち自身、直接の私たち以前の事実なのであり、「死ぬことを忘れていても、みんな死に」になっていくのである。
かかる「生の事実は」また「死の事実」でもあり、「生と死」「生と滅」は理性や知識以前における自己存在の真相なのである。

私は以前に書いたかも知れないが、無神論者の仏罰男なので、一切の宗教は信じていないし、死んだら角膜、臓器の殆どは病院へ寄付されることにもなっている。
だから死んだら、その後の事は私自身「知ったことではない」事になっているが、このブログのどこかで書いた「葬式」では「死は何も考えずに素通りできる人間ほど良く知ることができる」と書き、ホテルカリフォルニアでは「人は何故・・・・」と書いてしまった。

道元が指摘した大衆の誤りを、絵に描いたようにやってしまった訳だが、前から思っていたが、これで私の凡夫(愚かな普通の男)ぶりは充分自覚できた。   そして、これで満足だ・・・。