1900年前後のマッチ工場の姿・・・
まず工場へ入れば、その中に大人の労働者は全くいない、全て貧しい家の子供たちばかりで、その殆どが女の子だった。
そしてそうした女の子でも14、15歳の子は希で、大半が10歳前後、中には8歳と言う者や、信じられないかもしれないが6歳、7歳の子供までたくさん働いているのだが、特にマッチの軸を並べる作業場では10歳以下の子が8割以上、みんな痩せていて、普通の家の子供なら学校で「いろはにほへと・・・」と勉強しているしているのが本来の姿だろうに、マッチの軸を並べる機械の隙間から顔を出して、左右をキョロキョロしながら軸木を並べているのである。
またこうした工場では現在のように休憩時間など殆どなく、朝早くから暗くなって作業が終わるまで休みなく働き、その食事も殆どが雑穀であったとされている。
またこれはやはり1900年代初頭、桐生、足利での話し・・・。
この当時製糸会社の羽振りのよさはつとに知れ渡っていたが、聞くと見るとでは大違い、豊かな自然に恵まれ、出会う人も親切なこうした工業地帯の実態は、言うにはばかられるような悲惨さだった。
製糸工場で働く労働者は全員女性で、さすがに10歳と言う者はいなかったが、それでも12、13歳から20代前半の女性が働き、忙しい時期には労働時間など決まっていなかった・・・朝目覚めたらすぐに作業所に入り、夜12時になるまで働くことも珍しくなく、トイレでさえ朝と昼にそれも交代で決めて行く・・・と言うような有様だった。
食事はワリ麦6分に米4分、これを7分以内に食べて、寝るところは豚小屋と殆ど変わらず、中には布団ではなく藁の中で寝ている者まであった。
そのうえ、雇用主やその子息から関係を迫られる者もいて、彼女たちはそれで子供でもできれば、認知してもらえたのかと言うと、僅かな金を渡され放り出されたのである。
そしてひどい工場になると、こうした製糸の仕事が暇なときは、復帰する時期を決めて他の工場や女給の仕事へ奉公に出され、その給金は全て雇用主が収奪していたのであり、彼女たちの1ヶ月の給金は多くても20円を出なかった・・・20円を現在に換算するのは難しいが、例えば一家4人が1日に消費する食事代の40日分と言うところか・・・8万円から10万円だろうか。
こんな状況だから当然結核や、他の病気にかかる人も多く、そうした人達は医者にかからせて貰えることもなく、工場の片隅に作られた小屋へ入れられ、大した食事も与えられず、死を待つだけだった。
この当時の米の値段は1升8銭から9銭、大手といわれる機械制の大工場でも男子の1日の日当は17銭、女子にいたってはこうした意味で1流企業といわれるところでも1日あたり12銭で、しかもこれは昼夜兼行2交代制で12時間労働の場合であり、紡績労働者の国際比較では、日本の女子の最低賃金がイギリス女子の10分の1、イタリア女子の5分の1、植民地だったインドの女子労働者より安い賃金で働いていたのである。
当時、紡鍾1本あたりの1年間の綿花消費高はイギリス35ポンド、インド134ポンドに対して日本は220ポンドと異常に高く、いかに長時間労働が強いられていたかがわかる。
また1918年に起こった米騒動では、この年の3月に1升20銭だった米の値段は7月には40銭、8月には50銭と言うスーパーインフレに陥り、これはどういうことかと言うと、この当時の日雇い人夫の給金が1日50銭だから、1日働いて米が1升しか買えなかったことになる。
これでは当然暮らせず、その後大変な米騒動に発展して行くのだが、1923年には関東大震災が発生している。
そしてこれは1932年(昭和7年)の記録。
当時世界恐慌から沢山の失業者をかかえ、その上この恐慌は農村部にまで及んだため、農村部の惨状は目を覆うものになった。
この年の国内農家の借金合計は47憶円に達し、1戸あたり平均で837円・・・この額は当時の平均年収より多く、欠食児童(経済的困窮から、決まってご飯を食べることができない子供)が多くなり、食料にするために木の根やわらびを取りにいって、学校を欠席する児童が増え、また娘の「身売り」も横行した。
山形県のある村での話し・・・、この村には15歳から24歳までの娘が467名いたが、その内借金のために売られた娘が110名もいて、他に女中や酌婦に出ている者が150名いたと言う・・・。
いつの時代も厳しい状況のとき、真っ先に犠牲になったのは女性や子供だった・・・と言うことか。