世の中には不思議なめぐり合わせの人がいる。
さして望んでもいないのに大変な事業の手伝いをさせられ、しかも後世それほどの名声も残さず、唯黙って人生を駆け抜ける人がいる・・・、私はこうした人こそ本当の意味で尊敬に値すると思っているのだが、今夜は私が最も尊敬する女性の一人、「おみち」さんを紹介したいと思う。
「そうじゃない、何度言ったら分かるんだ、棒を書いたら左右の点々・・・、その点は下が止めだぞ、良いかこれを間違えるな・・・」
「棒の下は放しですか、止めですか・・・」
「そんなことも憶えとらんのか・・・、止めに決まってるだろう、その隣は弟だ、良いか弟の字は分かるか」
暑い夏の日、さしたる風も通らぬ粗末な部屋、セミの声がいかにも喧しく、丸うちわをパタパタやっても一向に涼しくならないので板間に放り出した老人の視線は、全くあらぬ方向に向いていた。
その傍らで長さ2尺8寸(約84cm)、幅1尺2寸(36cm)の机に向かい、額の汗をぬぐいながら、余りうまくない字で一生懸命紙に向かって奮戦している女の姿があった。
これは一体何の場面だと思うだろうか・・・、実はこの老人が滝沢馬琴であり、紙に向かって奮戦しているのが、この馬琴の息子の嫁の「おみち」さん、そしておみちさんが一生懸命書いているのが、かの滝沢馬琴の長編大作「南総里見八犬伝」である。
滝沢馬琴については、作家の「杉本苑子」女史がその著書「滝沢馬琴」で詳しく書いているが、1767に生まれ1848年に没した滝沢馬琴は、その81歳の生涯のうちで300もの「読本」(よみほん)を書き、その代表作がこの「南総里見八犬伝」であり、馬琴はこの時代を代表する売れっ子作家だったのだが、寛政年間以降、享楽的な心中話などの人情物語に対する幕府の規制が強まった結果、こうした八犬伝のような勧善懲悪主義的な通俗文学が流行していったのである。
こうした読本は歴史上の人物や事件、更には中国文学からの翻訳が素案になっていたり、場合によっては説話そのもの、ストーリーはそのままに脚本化したものもあり、雄大な思想の背景には儒教、仏教思想に基づく教訓を伴っていたので、幕府当局もこれを容認、もしくは快く思っていたに違いない、滝沢馬琴の読本はいずれもその構想のスケールが大きく、複雑な因縁が少しずつ解かれていくストーリーの心地よさから、多くの世人に愛された。
だが馬琴がこの「南総里見八犬伝」を執筆中のことだった・・・、「ああ・・雨が、雨が降ってきた・・・」家の中にいて馬琴はこう騒ぎ始め・・・、失明した。
そのショックは大きく、馬琴は一旦八犬伝の執筆を断念するが、その生涯に置いて集大成とも言える八犬伝の完成をどうしても諦めることができず、家族に口述代筆をしてもらうことを考えたが、彼の妻は寝たり起きたりで病弱だった、また息子も病弱で早くに他界していた。
残る候補は息子の嫁の「おみちさん」しかいなかったが、このおみちさん、それまで全く文学などには興味が無く、そもそも文字ですら名前の他に書けるものが少ないほどだったのではないだろうか・・・、江戸の町屋の平均的な主婦で、筆など持ったことすら無かったに違いなく、馬琴の書いていた読本に対しても、それほど興味が無かったのではないか・・・と思う。
馬琴はおそらく必死でおみちさんを説得したことだろう・・・、盲目となった今日、自ら筆を持つことは叶わない・・・、唯一つの方法がおみちさんだった。
そしてこの家の収入の大方が馬琴の読本で成立していたこともあって、初めは「そんなことできません」と言い続けていたおみちさんも、次第に仕方が無い・・・と思うようになっていったのだろう。
こうして嫁と舅(しゅうと)のでこぼこ二人三脚が始まっていった。
しかし、この作業は一言で言って地獄だった・・・、冒頭のやり取りはその一場面だが、良く考えてみるといいだろう、日本の平均的な一般主婦が、盲目の舅が語るヘブライ語の聖書を聞いて、書き写さなければならないとしたら・・・いやおそらくそれより困難なことをやろうとしていた訳である。
馬琴は漢字の大家でもあったから、その頭の中には20万を超える漢字が入っていたと言われ、それらの中には微妙に違う漢字で、微妙に違う雰囲気を伴うものがあったり、前後または遠いところで書いたことが、今の場面で効力を発揮すると言うものもあった・・・、これを漢字を知らないおみちさんが聞き取って、紙に書いていくと言うことがどれほど困難なことか・・・と言う話だ。
これが、おみちさんが馬琴の弟子だったと言うならまだしも、今まで農業しかしたことが無い女性に、いきなり法務省法制審議会の報告書類を書け・・・と言っているようなものだ、辛かったに違いない。
朝早くからおきて掃除をし、ご飯を作って病弱な姑に食べさせ、盲目の舅にも食べさせなければならない・・・、洗濯が終わってやっと後片付けも終わり、舅のところへ行くと、待ちかねて機嫌が悪くなった舅からは容赦ない言葉がポンポン出てくる。
「本当にたわけだな・・・何度言ったら分かる・・・、その漢字は同じものが近いところで並ぶと、文章の流れがおかしくなるのだ・・・、だから同じ意味の違う漢字を使うのだ・・・、この前教えただろう」馬琴がいらついて大きな声を上げる。
「そんなもの、忘れました!、もう沢山です・・・、そんなに言うならお義父さんが自分でやってください」おみちさんは泣きながら表に飛び出す。
しかし、やがて涙を拭いたおみちさんは、気を取り直してまた静かに机に向かう・・・、少し落ち着いた馬琴がまた口述を始めたに違いない。
盲目となった馬琴にはおそらく焦りがあったはずで、そうした焦りの中で全く畑違いのおみちさんに、漢字1字1字を口伝えで教え、文章にさせたその熱意は並のものではない、また中年になって、もの覚えも若い頃とは衰え、そのうえ全く関心も無かったにもかかわらず、漢字の大家が使う20万とも言う漢字を勉強し、馬琴の世界を世に現した「おみちさん」はひとえに努力の人である。
そして今日、日本文学史上不朽の名作となった「南総里見八犬伝」は、完成したのだった。
号泣、怒り、忍耐、情・・・そうしたものの怒涛の中で耐え抜いた「おみちさん」がいなければ、今日私たちは「南総里見八犬伝」読むことはできなかっただろうし、それによって感動することもまた、できなかったに違いない。
世に名作と呼ばれるものは、極限まで追い詰められた作者の情念のほとばしりであり、不思議なことにこうした作品は、あらゆる困難の中で、嵐に浮かぶ小船のように危うくなりながら・・・、それでも必ず世に出てくる。
ここに人は天の意思を垣間見るのだが、その本質は人の情念が成せる業か、天の力が成せる業かは定かではない・・・。