元弘の変により、隠岐に流された後醍醐帝・・・、ある夜帝は不思議な夢を見る。
後ろから黒い影が追いかけてきて、それは今にも帝の肩を掴もうと言う勢いであった、必死でその影から逃げようとする帝、しかしついにそれは帝の装束に手をかける…がその時一瞬にして眼前に内裏から外の庭の景色が広がり、その先には2人の古装束姿の童子がかしずいていた。
2人の童子は帝の姿に気づくと立ち上がり、さらに奥の方を手で案内していたが、その先にあるものは雷に打たれたように輝く1本の大きな楠(くすのき)だった。
やがてこの楠から閃光が発せられ、帝の後ろに迫っていた黒い影はこの閃光によって瞬く間に消失していったのである。
大粒の汗をかき、この世の終わりかと思えるように唸っていた帝は、ハッと目を醒まし考えた・・・、これはいかがしたことか・・・、もしやこれは・・・。
やがて河内の悪党、楠木正成(くすのき・まさしげ)の所へ、帝から「味方するように」と言う使者が訪れるのである。
また時は939年、「新皇」つまり新しい天皇を名乗った平将門(たいらのまさかど)・・・、彼が叔父の平国香(たいらのくにか)を殺して関東を平定し始めていた935年、将門は一人の童子に出会い、それから連戦連勝の将門の前には、いつも古式ゆかしい童子が立っていたと言われている。
そしてこちらは戦国時代、甲斐の武田信玄。
深い霧に包まれた合戦場・・・、武田軍はまだ攻めて来ぬかと待ち構えていると、やおら遠くから諏訪太鼓の音が近づいてくる、「イャー」「ハァー」霧を裂くような子供のかけ声が、太鼓とともに魔を切りながら少しずつ近づいてくるのである。
そして太鼓の音が止まり、一瞬の静寂が訪れたと思った瞬間、怒涛のように武田軍が押し寄せて来るのだ。
初めて武田軍と対戦する武将は、この諏訪太鼓と先鞭の子供のかけ声に、言いようのない恐怖を感じたと言われている。
このように古来から子供、童子は何か吉兆があるときに現れたり、または魔を裂くものとして考えられてきた経緯があり、こうした考え方の背景には妙見菩薩に対する信仰が内に潜んでいるように思うが、妙見菩薩は同時にとても禍々しい存在でもある。
それは例えて言うなら、ガラスのような危うさとでも言おうか、一発逆転の際の力は絶大だが、そこに穏やかさがない。
陰陽道の「泰山府君」(たいざんふくん)に近いものがあり、この泰山府君は人の寿命に関わる神とされているのだ。
後醍醐帝のその後を考えれば分かるだろうが、一時は天皇中心の社会を築くが、瞬く間に足利尊氏によって攻められ、吉野へ追いやられ、そこで生涯を終えることになる。
また平将門にしてもそうだが、勢いに乗じて関東を平定するが、その先に人々の願いが生かされていなかった・・・、そのことが最後、わずか400人ばかりの手勢で敗走と言う結果に繋がった。
武田信玄もまた京へ上洛と言う絶頂時に、流れ弾に当たって最後を迎え、その後武田勝頼の代には織田、徳川軍によって滅ぼされてしまうのである。
そしてこれは一般の人の例だが、1972年、岡山県赤磐郡で酒屋を営んでいた男性(41歳)が、前夜お得意先の家で話が盛り上がり遅くなった。眠くて仕方ないので、ちょっと昼寝をしようと座布団を折って枕にし、うとうとしていた時のことだ・・・・。
何やら耳元が喧しいので目を醒まして、ごろんと後ろを振り返ったが、なんとそこには枕元に立ててあった屏風に描かれている唐子(からこ・中国の昔の格好をした子供)が、絵から抜け出してみんなで踊っていたのである。
男性は唐子たちに気づかれないように薄目を開けて見ていたのだが、その唐子たちは嬉しそうに手をつないで輪になって踊っていた。
はじめは夢かと思っていた男性だが、やがて自分の眼は確かに開いていることに気づいた・・・、そのとたん言いようのない恐怖が体を駆け回り、「わあー」と大きな声を上げてしまい、これにびっくりしたのは踊っていた唐子たちである、大慌てで或る者はつまずき、或る者は走って、それでもきちんと屏風の中の元の絵に戻っていったのである。
男性はこの経験の直後、経営していた酒屋のすぐ近くに大きな道路がつくことになり、それ以降毎日大変な売上になって行き、大きな資産を蓄えることになる…が、そうしたある日、暮らし向きも楽になって使用人も雇う立場になった男性とその家族は、皆で海水浴に出かけた。
それは久しぶりの家族団欒、楽しい日のはずであった・・・、が、何とこの海水浴場で2人の子供が溺れ、死んでしまうのである。
どうだろうか・・・、このように童子を見てから以降、大変な幸運に恵まれたと言う話はとても多いのだが、それが終わると何某かの不幸も訪れていることが多い。
そこには何か幸運の対価のようなものが潜んでいるように思えるのだ。
そしてこうした話の延長線上に「座敷わらし」があり、座敷わらしは東北にその話が多いとされていて、一説では古くから冷害の多かった東北では飢饉が多く、その度に貧しい農民たちは生まれた子供が養えず、「間引き」や「戻し」、つまり生まれた子供を殺してしまうことがあった。
それがこうした座敷わらしの話にくっついて行った・・・と言われているが、座敷わらしの話は北陸や山陰にもそれが残っている。
また「座敷わらし」はその家に住み着いている間は家に繁栄をもたらすが、それが去ってしまうと、その家は貧しくなるとされていて、どうもこれは幸運もつかさどるが、同時に不幸もつかさどる存在に思え、そうした点から童子に姿を変えた妙見菩薩とも通じているようにも思える。
貧乏神は自分が去ることでその家に繁栄が訪れる、つまり貧乏神はまた幸運にも関与しているのと同じようなニュアンスが感じられ、漠然とだが「庚申待ち」のような疫病や、寿命と言うものに対する恐れのようなものも感じてしまうのである。
すなわち、あまりにも強大な野望や情念はその思いの大きさゆえに禍々しく、しいてはそれが自身に跳ね返って来やすいものだと言うこと、また心穏やかに平凡に生きる、つまり、大きな野望によって寿命を失うよりは、命を長らえることをして幸福、勝利とせよ・・・と言うことを表しているように思う。
そしてこうした思いの遠い先に、いずれも古代神話の「破壊と創造」の概念が待っているような気がしてしまうが、どうだろうか・・・。
※ 本投稿を以って2018年度の投稿は終了致します。
次年度投稿は1月3日から開始予定です。
この1年間、記事を読んで頂き、有り難うございました。
良い年の瀬、良い新年をお迎えください。
文責 浅 田 正