京都、大経師屋(だいきょうじや)の女房「おさん」は当時この界隈で知らないものがいないほどの大変な美人、おまけになかなか負けん気が強くて、それでいて働き者、亭主とも仲が良く、また倹約家でありながら、亭主には粗末なものは着せない、良妻を絵に描いたような女だった。
そんなある日、亭主は仕事で江戸に赴かなねばならない用事ができて、しばらく家を空けることになったが、「おさん」の実家では、亭主がおらず女房の「おさん」だけでは店の切り盛りも大変だろうと言うことで、留守番にと、長年「おさん」の実家に奉公していた、茂右衛門と言う手代を大経師屋に差し向けた。
この茂右衛門はたいそうな堅物で、一心不乱に働く一方の男で、こうした男なら女での間違いもなかろう・・・と言うことだったが、実際茂右衛門は大経師屋へ来てもせっせと働き、またその言動も正直そのもの、本当によく働いていた。
そしてこんな茂右衛門の姿を見ていて、いつしか「おさん」の家の待女をしていた「りん」は茂右衛門に好意を寄せていった。
しかしこうした時代のこと、ろくに文字すらも読めない「りん」は恋文の1つも書けずに悶々としていたが、そんな様子を知った「おさん」は「りん」の恋文を代筆してやることになり、しおらしい乙女心をつづった恋文を書いて「おりんからだよ」と茂右衛門に渡した・・・、が、その手紙を「おさん」が代筆しているとも知らない茂右衛門は、返事におりんをからかったような文をしたためた。
「ま、ひどい、馬鹿にしているよ」文を読んだ「おさん」は、またまたおりんに成り代わって手紙を書いた。そしてとうとうある夜、茂右衛門におりんの寝床に忍び込んでくるよう約束させてしまう・・・、が、これはほんの悪戯のつもりで、人を馬鹿にしたような手紙をよこした仕返しに、「おさん」がおりんに成り代わって寝床に入り、茂右衛門をおどかしてやろうと言う魂胆からだった。
だが、そんな大事な夜・・・、おりんに成り代わって寝床に入った「おさん」は、昼間の疲れもあってか、いつしか深い眠りに入ってしまった。
そしてどれくらい経っただろう・・・、フッと目覚めてみると、着ていた布団は下に押しやられ、帯は解けて着物ははだけ、髪は乱れて・・・、どうやら眠っている間に茂右衛門と一線を越えてしまったらしかった。
「まあ・・、どうしましょう」おさんは呆然として途方に暮れる・・・、がしかし、首尾よくことが運べば、おりんを呼んで来ることになってなっていたから、この光景はもしかしたらおりんに見られたかも知れない、こうなっては人の噂は避けられない。
もはやこれまで、この上は身を捨てて命の限り愛欲に生きようか・・・、茂右衛門と一緒に死ぬまで・・・。
この話を聞いた茂右衛門も、おさんの覚悟に押され、自分も覚悟を決めた。
そしてこうした関係はもちろん人目に付かないはずはなく、ついに2人は京に居られなくなって、琵琶湖のほとりに立っていた。
そして手に手を取って、さあ行かん来世に結ばれることを願って・・・とそのときだった。
この期に及んで茂右衛門は何を言い出すかと思えば、こんなことを言い始める。
「死んでしまって来世が本当にあるのかは分からない、それならいっそのこと書置きだけ残しておいて、水死したと見せかけ、どこかへ逃げて一緒に暮らそう・・・」
なんとも女々しいと言うか、ある意味とても現実的な茂右衛門の言葉・・・・、しかし「おさん」の返事はもっとぶっ飛んだものだった。
「本当は私もそう思っていたの、こんなこともあろうかと思って店から500両持ってきたのよ」・・・だ。
とんでもない2人だが、さすが井原西鶴(いはら・さいかく)の面白さ、リアリティのある人間描写が成せる技、一応2人で心中するつもりで家を出てきているにもかかわらず、でもおさんはしっかりと500両を店から持ち出しているのだ。
おさんのこうしたしたたかさ、そのたくましさはある種「女」のそれが実に良く描かれている。
またこうした関係になってしまった・・・、もうだめだ「死のう・・」ではない、現実に即した極めて無理のないあり様、どれをとっても「女」の性と言うか「業」を感じさせるものである。
またこの時代、厳しい幕府の倫理規定があり、こうした不義密通は死罪になるのだが、一度タガが外れた女の覚悟と言うか、その崩れぶりはしっかりとした鋼(はがね)が入っている・・・、幕府のご法度にたてつき、どうにかして生き延びて、その生命と愛欲を楽しもうと言うのだ。
もちろん「おさん」に罪の意識がないわけではないが、それが悪いことだと分かっていても、タガが外れる機会に出会ってしまい、そこから先愛欲に溺れることが、では人間としてそれほど不幸なことかと言えば、そうだとも断言できない、そこに女らしいあり様を見てしまうのである。
源氏物語の女たちには、どこかしら初めから現実的なモラルが欠如している。
しかし「おさん」はこうしたモラルを知りすぎるほど知っていて、それでありながら女として、真っ向から対立しようとしているのである。
この事件の結末・・・、この後2人は丹波の山奥へ逃げ隠れるが、ついに見つかってしまい、街道筋を引き回された挙句、粟田口の刑場で殺される。
そして井原西鶴(いはら・さいかく)のこの物語は、或る実際にあった心中事件をもとにして書かれているが、それによると、事実は茂右衛門に惚れてしまった「おさん」が、下女の手引きで密会していた・・・と言うのが真相らしい。
おりんの代わりに寝床で・・・・と言う不自然さは、こうした事実を隠すためだったようだが、「色物語」を厳しく取り締まっていた幕府、そうした時代背景から井原西鶴と言えども少しだけ保身を考えてしまった・・・、つまりはじめから「おさん」が茂右衛門に惚れているのでは、不義になってしまい幕府から目をつけられる、ここはちょっとした偶然でそうなったことにしておけば、幕府の取り締まりもそう厳しくはあるまい・・・がチラッと頭をよぎったのではないだろうか・・・。