チンギス・ハーンの孫、フビライ・ハーンは大都(北京)に都を開き、ここに「元」が国家として成立したが、時に1271年のことだった。
そして「元」はその後日本に対して大軍を擁して攻め込むが、どういう訳かうまく行かない・・・、しかし日本では元寇(げんこう)、蒙古襲来(もうこしゅうらい)として恐れられた、こうした元の日本攻撃には2つの大きな理由があり、その1つは皇帝フビライの日本征服の野望だが、もう1つの理由は日本の海賊問題だった。
元の属国となっていた朝鮮半島の「高麗」には日本の海賊「倭寇」(わこう)が頻繁に出没し、人はさらう、食料は略奪する・・・、と言った具合でその被害は甚大なものだったが、元が名目上も成立する以前から、高麗は元に対してこの日本の海賊問題で救いを求めていた。
つまり、元の日本進出の背景には、海賊対策を申し込んでも一向に埒が明かない日本に対して、統一国家としての国威の発動に近い意識がフビライにはあったようで、1268年以降、高麗を通じて日本に対して3回に渡って使者を送り、服従を求めた。
最初から服従とは「我に逆らうものは、その命を絶対に落とす。これは今まで征服した者たちも、これから征服される者たちも同じである・・・」としたチンギス・ハーンの孫らしい言葉ではあるが、当時18歳の北条時宗とその有力御家人たちは、この要求を拒否するならまだしも、「無視」と言う手前勝手かつ、極めて日本的情緒が伺える方法で回答するが、これはポツダム宣言の受諾が遅れたのと非常に良く似ていて、「服従しろ」と言っている相手に、「日本の事情も分かってね・・・」と言っているようなもので、相手としては一番侮辱された印象を受ける回答形式でもある。
1274年10月、何度使者を送っても一向に返事の無い日本の態度に激怒したフビライは、元と高麗の連合軍3万を、900隻を越える数の船で編成し、博多湾沿岸に上陸させ、日本軍もこれに応戦するのだが、元軍の集団戦法と毒矢、火を使った攻撃にひとたまりも無く退散、大宰府の水城(みずき)まで撤退した・・・、が、なぜか元軍はここまで攻撃しながら、理由も無く船に引き上げてしまい、翌日10月20日の夜に発生した暴風雨で、その多くの兵が船とともに博多湾の底に沈んでしまったのである。これを文永の役と言う。
さらに1279年、ついに宋を倒し中国を統一したフビライは、再度日本遠征の準備を行い、1281年、元、高麗、漢人で編成された4万の軍が朝鮮半島から出兵、対馬、壱岐を制圧し、またしても博多湾に迫ったが、今度はあらかじめ攻撃に対する備えをしていた日本軍の前に苦戦する。
日本軍、主に九州、中国地方の御家人たちだったが、彼らは海岸に石の塁、つまり石の壁を築いてこれで防御し、この4万の蒙古軍を撃退していた。
またこれとは別にフビライは南宋人10万人で編成された江南軍も博多湾に派兵していたが、博多湾に到着直後、この江南軍もまた暴風雨にあって、多くの兵や船が海の藻屑となってしまうのである。
これが「弘安の役」だが、フビライはこの前後2回にわたって日本征服を試みている、この2回はどちらかと言えば圧力を加えるのが目的だったのか、その規模は文永や弘安の役の規模よりは、はるかに小規模なもので、弘安の役の後にも3度目の大遠征を企てていたフビライだが、元の国内で親族の内乱が勃発して以降内乱が相次ぎ、ついに日本征服の夢は潰えてしまうのである。
さてこうして考えてみると、フビライの日本に対する執着は、並の執着ではないような気がするが、ここで考えたいのは日本征服の野望がどこに端を発しているかである。
海賊問題は確かに国家権威を考えれば捨て置けない問題ではあるが、それにしてはこの執着は深すぎる。
実は面白い話がある。
ヴェネツィア生まれのイタリアの探検家マルコ・ポーロは1271年、アジア大陸を陸路から横断し、1275年には「元」の皇帝フビライと会見してる。
その後マルコ・ポーロとフビライは意気投合、マルコ・ポーロは以後17年間に渡って元に滞在し、元朝に仕えて政務に携わった。
そして1292年に元を出発し、海路でペルシャを経てヴェネツィアに帰ったが、その間の旅行談を筆記したのが「東方見聞録」であり、この中で日本は黄金、真珠、宝石の多い国で、無限の富を蓄えていると記されている。
フビライが当初日本征服目標としていたのは確かに国威の発動だろうし、周辺征服だったかも知れない、だがマルコ・ポーロの話を聞いてから、それには経済的欲求も加わったのではないか、そのため弘安以降も諦めきれずに日本征服をもくろんだのではないかとも考えられる
皇帝フビライはなかなかの男だった。
日本を揺さぶるために、使者や書簡を時の権力者北条家だけではなく、天皇周辺にも送っている。
これはどう言うことかと言うと、万一天皇がフビライを認めてしまうと、北条家が逆賊となり、それを名目に元が天皇との直接交渉で、日本を手中に収める方法もあった訳だ・・・、幸い武力侵攻が功を奏さなかったおかげで、こうしたことは実現しなかったが、一歩間違えれば日本の歴史は今とまったく違うものになっていた可能性がある。
また元の襲来を事実上阻止したのは「暴風雨」とされているが、時の亀山上皇を始めとする公家たちは、元の襲来に対しても、昔ながらの敵国降伏の祈願を諸方の大社、大寺に通達しただけだった、しかし現実に元軍が撃退されると、これらの何もしなかった者たちが、祈願の熱意が神冥を動かした結果であって、暴風雨は「神風」であったと考え、日本は神々が鎮座し守護してくれる神国であると言う、いわゆる神国思想を喧伝しだしたのである。
だが現実はどうであろうか、元軍は船でやってきている以上、その道の専門家、つまり船乗りたちや、気象を経験的に予測できる者をも乗船させていただろう。
そしてそうした者たちは、暴風雨が来ることをある程度予測できたはずであるが、こうした予測こそが敗因になったのではないか、つまり暴風雨が来ることが分かり撤退しようとして、その判断をフビライとまでは行かなくても、ある程度の責任者に確認している間に撤退も侵攻もできずに、海に沈んでいったのではないだろうか。
もちろんフビライは撤退を絶対認めないし、その中で万一船を降りて、日本の陸上で戦闘になっている間に嵐が来れば、船が沈んで帰れなくなり、日本で孤立する。
気象をある程度予測できたからこそ、どうにも判断できずに暴風雨に巻き込まれた・・・と言うのがことの真相ではないだろうか。
また幕府はそれなりの防御策を講じていたし、西国御家人たちはこの事態に一挙に注目を集め、こうした場面で軍功でもあれば褒賞が・・・と言うこともあって頑張っただろう、さらには元軍は異民族混成部隊であり、先の話ではないが、海戦に慣れてはいなくて、その連絡網も後になれば後になるほどずさんだったに違いない。
第一、 もともとフビライに征服されたか、服従させられた民族で編成された軍隊でもあり、こうしたことから戦いには消極的な者も、少なくなかったのではないかと考えられるのである。
最後に元寇(げんこう)と倭寇(わこう)だが、前者は元のどちらかと言うと軍を指し、後者は日本の海賊のことだ。