「月夜の怪」後編

そうか・・・、これが海の不思議ってやつかもな、木村君は先輩の乗組員から常日頃航海中にはいろいろ不思議なことが有る・・・と聞かされていたので、てっきりこうした女の声もそう言うものに違いないと思ったが、その女たちの声に混じって時おり「うーん、うーん」と言う男のうなり声まで聞こえてくる。

「なんだ・・・、どこから聞こえて来るんだ」、木村君は不審に思い、また足音を忍ばせ、声のする場所を探していったが、その声はどうも船大工のいる個室から聞こえてきているようで、これはいかん、船大工が病気になったに違いないとその個室のドアをノックしたが、以外にもそのドアの鍵は開いていて、勝手にスーッと開いたのだった。

その部屋の中には消灯した暗闇に丸窓から月の光が差し込み、ベッドの辺りが照らされていたが、なんとベッド脇の床に船大工の柏木満(33歳、仮名)が、うんうん唸りながらうずくまっていたのである。
「柏木さん、どうした大丈夫ですか」、てっきり柏木が病気にでもなったのではないか、と思った木村君は柏木のところに走り寄ったが、その声に一瞬ギョっとなった柏木は木村君の姿にたいそう驚いた様子で、「お前、何か見たか」と尋ねた。

「いや何も見なかったが、何人かの女の声が聞こえた」、木村君はなぜ自分がここへ来たかを柏木に説明したが、それに対して柏木はひどく慌てたようで、「そんなバカなことがあるわけはない、つまらん話をするもんじゃねぇぞ」と言うと、いきなりポケットから1000円札を取り出すと、木村君に握らせた。

この1000円は何のためにくれたんだろう・・・、木村君は釈然としないまま柏木の個室を出ると、階段を登りブリッジに上がったが、そこには2年先輩の青柳信二が当直で見張りをしていて、木村君の姿を見ると、なぜか助かった・・・と言うような表情になってこう言った。
「おい、木村、お前いまそこで女を見なかったか」青柳はぶるぶる震えながら奇妙なことを尋ねたのだった。

だがしかし、木村君にとってこの問いは初めての問いではなく、今しがた柏木からも同じ事を聞かれたばかりだったので、「いや見ませんでした、でも声は聞こえました」と答えると、青柳はこわばった顔で、先ほどまで何があったのかを木村君に話し始めた。

青柳信二がブリッジで一休みしようとタバコに火をつけたときだった。それは初め幻覚かと思ったが、なんと月明かりで照らされた木の床から青白い「手」が生えるように現れてきて、その手は次第に腕から次は顔、上半身から全体となって、若い女の姿になったかと思うと、青柳のことなど全く気に止めず、ブリッジから下へ降りていったと言うのだ、しかもそれから都合4人、合計で5人の若い女が床から生えてきて、やはり下へ降りていった・・・との事で、それでちょうど木村君が出くわしているはずだ、と言うのだ。

「えー・・・、それじゃあの女の声は、まさか・・・」木村君は訳も分からず体が震え始め、先ほど柏木から1000円貰ったことも忘れ、柏木の話を青柳に話して聞かせた。
そしてこれらの奇怪な話は、いつの間にか船員たちの間に広まり、それだけではなく濃霧の晩、月のない晩、火の玉を見たという者、女の泣き声を聞いたという者、柏木がうなされ、しきりに誰かに謝っている寝言を聞いたという者、また飲料水に女のものと思われるような長い髪の毛が入っていた・・・などいろんな証言まで出てくるに至って、船長が直々に柏木から事情を聞くと言う事態になっていったのである。

そして観念した柏木の証言は衝撃的なものだった。
彼は横浜港を出航するとき、横浜黄金町の売春宿の女将と結託し、海外でひと稼ぎできる・・・と言い、5人の女をだまして売春宿から連れだすと、密かにこのS貨物船に乗船させたのである。
もともと女好き、ギャンブル好きの柏木は、船大工と水タンクの係りも兼務していたことから、通常は使用しない空の水タンクに女たちを隠し、ロサンジェルスへ着いたら日本人街へ売り飛ばして金を儲けようと考えていた。

だが運の悪いことに出航間際になって航路が延長され、空タンクも満水にしろと言う命令を受けた柏木は、密航を手引きしたことが発覚することを恐れ、タンク内に女たちがいることを承知で水を注水したのだった。
「やめて、助けて・・・」と中からタンクを叩く女達の声を聞きながら、柏木は知らん顔で水を注いでいたのだった。
この告白でくだんの水タンクを開けて中を確認すると、柏木の証言通り5人の女の腐乱死体が現れた。

そしてその中の1人は富山県押川の中川芳江さんであることが判明した。

「あの馬が騒いだ夜、鯉が暴れた夜、きっと芳江が家に来てくれたんでしょうね・・・」芳江さんの母親は静かにつぶやくと、目を閉じて下を向き、そして黙ってしまった・・・。