三界の狂人は狂なることを知らず
四生の盲者は盲なることを識らず(しらず)
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し(くらし)
これは空海の言葉だが、私は世の中で一番好きな言葉を1つだけ言えと言われたら、多分この言葉を挙げるだろう。
その意味はこの世に見えているもの、聞こえているもの、また生きていることも死んでいることも、すべては「無」だと言っているのだが、人はいかんせんこれを知らない、いや例え言葉で知っていてもそれを自覚することは難しい。
今この瞬間にも命に保障がある者などこの世にただの1人もいない、が、人はすでに明日のことを考え、また遠い将来のことを考える。
そしてその根拠の無い中で「幸せ」であることを望むが、ではその幸せとは何か・・・、金か女か、それとも地位か、女なら優しい言葉か、それとも「愛」か「平和」か・・・、それはいかなるものか眼前に示せるものか、それとも言葉で表すことのできるものか、そうではあるまい。
わが身の心の内など、わが身ですらそれを知ることは叶うまい、それにも拘らず人は「他人」に対して「心」求め、自身に都合の良い、または自身が信じる「有り様」が帰ってこなければ、そこに「心」がないと思う。
眼前に今まさに息絶えんとする者があったとするなら、これを可愛そうな者であるとするのは誰だ、それは本当に可愛そうなのか、いや違う、そこにあるのは只の事象に過ぎない。
毒蛇が死に臨んでいるを見て、人はこれに何を思うか、おそらく何も思いはしまい、下手をすれば早く死んでくれ・・・と思うやも知れぬ、だがこれが自身の父母なら、きっと涙してすがるに違いない。
して毒蛇と父母にはいかなる隔たりがあるものか、それは自身を産み育ててくれたという「縁」と、片方ではそれが生きていれば自身の命が危うい生き物であると言う事実の隔たりか・・・、では縁とは何か、自身はいつ今の父母を選んで生まれてきたことがあろうか、そこにあるのは只の偶然ではなかったか、そしてその偶然の中に「縁」を見ているだけではなかったか。
友とはなにか、自身の思う友、それは生身の人間か・・・、もしかしたら自身がその内なるところで作り上げた「虚」ではないのか、絶対裏切らず、いつも自分のことを思ってくれる、そして助けてくれる・・・、そんなことができる者がこの世にいると思うか、いや自分がそんなことを人にできるのか、そしてそれを形や言葉で確かめ合ったとして、そこに何があるのか。
今君と言う相手を愛している者、その愛は本物か、そも「愛」とは何か示せるか、言葉ならどのような言葉で、態度ならどのような態度かここに示せ。
「愛している」と言う言葉は言葉でしかない、抱きしめると言う行為はただの行為でしかない、そこに「愛」を見ている者はそれが自身の幻想ではないとどうして思えるのか、また相手の「愛している」と言う言葉が「虚」ではないことをどうして言い切れる。
すべての事象には意味など無い、そこに意志など無ければ「心」も「神」も無い・・・と空海は言っているのだ。
だが、だがだ・・・、すべて意味が無いとするなら、そこに意味を求めるのが人間ではないのか、空海の言うようにこの一瞬こそがすべてなら、その瞬間を信じなくて、一体何を信じることができるだろう。
人は誰も明日の保障がない、そして心も一時たりとて同じことなど無い、だからこそ眼前に広がるこの瞬間を信じ、そこに永遠の思いを願うのではないか。
そしてそれはすべて意味の無い事象に、自分自身が自分の意思を与えることに他ならない、そこに何を見るかは一人一人違うが、すべての事象に「色」を付けているのは人であり、そうした多くの「色」が重なり合って、この世と言うものが形を成しているのではないか。
真実とは何か、真実などたかが知れている。
家族が、親や子が偶然と言うなら自分はそこに「縁」を信じ続けよう、真の友などいないと言うなら、自分がその友になるよう頑張り続けよう、本当の愛など無いと言うなら、自分が本当に人を愛してみようではないか・・・。
そしてそれが間違いだったと思うか、正しかったと思うかもまた自分自身だが、少なくともこの命が尽きる一瞬までそれを信じることができたなら、最後の一瞬で間違いだったとしても、丸儲けではないか・・・と思う。
冒頭の空海の言葉は、確かに仏教的には「すべて無」と言う意味だが、どうだろうか、生まれ生まれ生まれて・・・と繰り返すその言葉の中には、真実はこうだけど、人間はそれだけではない、苦悩してそれに辿り着け・・・と言っているようであり、生まれての連続も死んでの連続も、そこに生きよ生きよ生きよ、ひたすら生きよと数珠を握り締める、空海の姿が垣間見えるように思うが・・・・これも私が見たいものを見ているに過ぎないのだろうか・・・。