そしてこの翌年、大正13年(1924年)、正二郎が好評だったアサヒ地下足袋の生産を倍増する計画を立てていたときのことだった。
何と、筑後川畔にあった工場、その大半を火事で焼失してしまう。
普通ならこれで意気消沈してしまいそうなものだ・・・、が、そこはやはり正二郎だ。
どうもこの男の根底には破壊は創造のチャンスと言うか、危機こそが我が活躍の場とでも言うかそうしたところがあり、それは根拠の無い精神論ではない、文字通り創造と言うものに近い考えで、消失した廃墟の上に新しいものを構築していくのだった。
正二郎は廃墟の上に今度は鉄筋コンクリートの高層建築を建設していく。
1年目は3階建て、2年目は4回建て、そして5階建て、6階建ての建物を建設し、そのおかげもあってか、工場の面積は消失時の実に18倍、しかも今度は機械を導入して、大量生産を流れ作業で行えるシステムに作り変えていたのである。
このためそれまで1足作るのに1人が50分近くかかっていた作業時間は、およそ32分に1足まで生産が上がり、おりから迎える需要の拡大に伴ってその事業は飛躍的に発展して行った。
その後、正二郎は1912年、初めて九州で自動車を使って足袋の宣伝をしていたことからも分かるように、来るべき自動車社会、その時代が遠からず来ることを見込み、昭和6年にはブリジストンタイヤ株式会社を設立するが、このときの発想もまた、おそらく地下足袋のそれと、何等変わらないものであったに違い無いだろう。
石橋正二郎、彼は面白いところがある。
すなわち「資本」に対する考え方だが、彼の中には常に資本の効率化と言うものが重要視され、しかもこの資本の効率化の目的が通常の商人であれば、自身の利益、または自身が関係する者の利益と言うことになろうが、石橋正二郎の資本はもっと広い概念があったように思われる。
それは自己と他があれば、他も配慮された、いわゆる資本の社会性への考え方である。
企業と言うものは利益を出してなんぼ、それが存続してなんぼのものであることからすれば、石橋正二郎のそれはこうした部分を創造と、社会的必要度で量っているところがある。
つまり企業は利益を出すことが至上ではなく、社会の役に立って行くこと、そしてそのために開発を続け、そうした社会との関係の中で存続していく道を考えよう、そして資本の最も理想的なあり方は、その投入先として「創造」にあるのではないか・・・、そう言うことを我々に示しているように思えるのである。
ちなみに鳩山元総理大臣の母親安子さんは、この石橋正二郎の娘であり、鳩山元総理にとっては石橋正二郎は「おじいさま」である。
危機の度に、そこに新しい世界を構築して行った祖父に比して、鳩山元総理の現状は、余りにもいたわしい・・・・。