「よもぎ摘み」・1

災害と言うものは、例えば大きな透明の球体、その真ん中に存在している者に対してその球体のあらゆる角度から、何が飛んでくるか分からない、そうしたものであるように見える。
そしてこうした災害と言えば、一番に考えられるのは気象や天変地異だが、それ以外にもこの6億年の間には、少なくとも2回、地球の自転が止まっているものと思われるし、半分生きていて半分死んでいるウィルスなどによって引き起こされる感染症、または植物や動物によって引き起こされる災害、例えば恐竜などは花によって滅んで行ったとする説もある。
だが少なくとも人類がこの地上に誕生して以来、文明と言うものを築き始めてから、災害における最も大きな要因は、災害の影に隠れた「人災」と言うものになってきているように思われるが・・・いかがだろうか。

享保17年(1732年)夏、瀬戸内海では毎日暑い天気が続いていたが、そうしたある日、村はずれに時ならぬ雲の姿を見た百姓のせがれは、急ぎこれを野良仕事に出かけている父親に知らせようと走ったが、やがてその雲は百姓のせがれに追いつき、しかもそれはまるで意思を持っているかのように低く降りてきたかと思うと、瞬く間に地面に群がっていったのである。

百姓のせがれが雲だと思ったものは何千万、いや何億かも知れない大量のイナゴの群れだった。
そしてそのイナゴの群れは人々の見ているまさにその眼前で、地上から生えているあらゆるものを食いつくし、丸裸にし、食べるものがなくなると場所を移動しては、全ての農作物を食い尽くして行ったのである。
これにより近畿地方から西は、九州一円に至るまで稲が完全に食い荒らされてしまった。
そのため日本全体で240万人が飢えに苦しみ、餓死者はおおよそ16000人と言う被害を出した。
これが享保の大飢饉である。

憶えておくと良い、古来より世界各地で起こる食糧危機の中には、このようにイナゴの被害によるものがたまに存在し、アフリカ大陸や中南米でも、こうしたイナゴの大量発生によってもたらされた飢饉が存在しているのである。
この突然のイナゴの大量発生はその原因がいつも不明であり、ある日突然起こってくる。

そしてこうして起こった飢饉が実際人々にどのような影響を及ぼすかと言えば、ここに天明の飢饉の様子が資料として残っているが、天明3年(1783)に起こった飢饉では生産力の低い東北がその災禍を被り、例えば仙台藩ではたった1年間で15万人もの人が餓死し、その後起こった疫病によりまた15万人以上が死んだ。
さらに南部藩では餓死者41200人、病死者24000人、村を捨てて出て行った者3200人、馬も20600頭が失われたが、これによって増えた空き家は何と11108戸におよび、天明3年の南部藩の人口が35万人であることから換算すると、1年で全人口の20%が死んでしまったことになる。

またここには別に、黒羽藩(くろばねはん・栃木県)の鈴木武助と言う武士が書いた「農喩」と言う書物の一部写しがあるが、これにはこう書かれている。
「関東はまだ大飢饉にはなっていない、しかし奥州では飢え死にしたものの数は多い。食べ物と言う食べ物は一切が無くなり、牛や馬は勿論のこと、犬、猫、狸まで食いつくし、もはや何も残っていない。そうしたなかで毎日人が死んでいく。ひどいところでは30家族も住んでた村や、4、50戸もあった里の全住人が死に絶え、それもいつ誰が死んだかさえも分からない状況で、死体はそのまま放置され鳥や獣の餌になっていた。また一村一里全てが何も無くなってしまったところすらある・・・」

そしてこれは伝えられている話だが、奥州路である人が橋を通っていたところ、その橋の下には沢山の餓死者が放置されていたが、、そこから死体のモモの肉を切り取って籠の中に入れていく者があり、彼らにそれを一体どうするのか聞いたところ、この人肉に雑草などの草を混ぜて、犬の肉として売るのだと答えたと言う。
羊頭を掲げて狗肉を売るなど可愛らしいものだ、狗肉を掲げて人肉を売っていたわけである。

東北の百姓は悲惨だった、牛や馬、犬、猫なども食いつくし、そして雑草や藁まで食べて、それすらも無くなって行き、ついにはもはや正常な心であろうはずも無く、死人の肉まで食べ始めたが、それとて腐っていくことからそうそうありつけなくなると、子供の首を切り火であぶり、その割れた頭蓋骨からのぞく脳みそまで箸でつついていた・・・と記録されている。

またこの当時広く農村では行われていた「間引き」だが、具体的には堕胎と産児圧殺のことを指し、また或いは捨て子もこの範囲に入ってくる。
すなわち私たちが昔、悪いことをして叱られたとき、「お前のような者は橋の下から拾ってきたんだ」と言われた語源は、まさに事実にその端を発しているのであって、堕胎が間に合わない子供は濡れた紙を顔に張られて死んでいくか、それとも橋の下に捨てられて、それを犬や獣が食らい、そうした犬や獣を人が食らう・・・、と言う形が存在したわけである。

堕胎は当時「もどす」とか「かえす」と言う言葉が使われ、半ば公然とした言葉ともなっていて、武士や町人の間でも行われていたが、都市部ではこうした堕胎専門の医師が存在し、これらの医師を「中条流」と呼んだりもした。
同じように「間引き」もそれ自体では言葉として抵抗があったのか、例えば生まれた男の子を殺す場合は「川遊びにやった」と言い、女の子を殺す場合は「よもぎ摘みにやった」と言うのであり、そう言えばお腹が大きかった母親や、その親族に子供のことを尋ねると、こうした言葉が返ってくることで、生まれたのが男の子か女の子かが分かったのだが、いずれにしても殺されてしまったこともまた分かるようになっていたのである。

「よもぎ摘み」・2に続く