「日本の医療はどこへ行く」

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                              2010 2 17 撮影

OECDの調査によると、病床100床における日本の医師数は13・7人である。
だがこうした例で言えば、ドイツは37・6人、アメリカは66・8人、フランス、イギリスでも50人前後であることを考えれば、日本のこの数字は圧倒的に低いと言わざるを得ないが、看護士の数でもやはり同じような傾向にある。
だが、これが例えば人口1000人に対する医師数になると、日本2・0人、ドイツが3・4人、アメリカが2・3人と、確かに低いことは低いが、さほど劣っているとは言えない数字になってくる。

こうした傾向の示すものは何か、それは「総数は満たしているが、個々の医療の中身が薄い」と言うことではなかろうか。
これはある意味「国民全員に等しく、最低限の医療を保障しよう」と言う日本の保険医療制度がその成果として、こうした傾向を現出させていると言えなくもないが、これは片方であくまでも最低限の医療の保障であり、病院へ行くための通院時間で1時間、それから病院について待っている時間が3時間、診察は3分と言う患者の実情を考えるに、いかにも日本の医療の浅さを感じさせる実情である。

医療制度でその仕組みを考えるとしたら、その採算性ばかりに目を奪われていると、いつかどこかで国民は大きな代償を支払うことになるかも知れない。
近年、採算性のない病院の閉鎖が相次いでいるが、安心で確かな医学、医療とは何か・・・、そうした本質的な議論の無い資本主義的医療のあり様は、決して国民の幸福に寄与することが出来ないように私は思う。

またこれは2006年の調査だが、日本集中治療医学会が行った内部調査で、かなり衝撃的な数字が明らかになっている。
大規模病院に措ける集中治療室(ICU)の責任者などを務め、学会認定医の研修に携わる指導的な立場の医師、75人を対象に行われた調査では、「過去に延命治療を控えた経験があるか」と言う問いに対して、60人から回答があり、何とその内90%に相当する54人の医師が「延命措置を控えた、または行わなかったことがある」と答えたのである。

そしてこの調査の衝撃性はその内容だ。
延命措置を控えた理由は何かの設問に、その理由として、家族の希望があって延命措置を控えたケースが全体の45%、後の55%は医療上の判断で延命措置を行わなかったと言うことなのだ。
つまりここで問題なのは、本人の意思はもとより、家族の意思より多くのケースが、医療側そのものの判断で行われている点にある。

延命措置を控えた場合の最終的判断を下したのは「担当医グループ」が45%、医師から相談を受けた「病棟医長または所属長」が判断したもの28%、また少数ながら医師の単独判断と言うものもあった。
患者中心の医療が叫ばれる今日、リビング・ウィル(生前の意思)が普及していない日本では、終末医療の実情は今もってなお、医は仁術と言う性善説に支えられた医師の「バターナリズム」(温情主義)がその体勢を占めているが、そうしたものの根底にあるものは、生命倫理やQOL(生命の質)の表面的な議論が横行している今の日本の医療にあって、患者の「死ぬ権利」に対する医師の過剰反応とも思われるのである。

病院の起源の一つは、中世に措ける教会付属の巡礼者のための休息所、そこで修道女たちによって巡礼者たちの疲れや、病を癒すケアが成されていた事が始まりとされているが、現代日本の医療制度を鑑みるに、どちらかと言えば、そうした起源とは相反する思想のもとで、形式上の「当事者」が患者に与えられているに過ぎない、そんな感じがするのだが・・・。

※ 本文は2010年に執筆されたものを再掲載しています。