「バロック音楽の系譜」・1

バロックと言う区分を音楽的様式として概念したのはドイツだが、その言葉自体は英語、フランス語圏でも発達していった。
しかし初期バロックはそれまでの古典音楽に対してある種の反動として発生したものであり、こうした流れそのものはバロック期の中でも存在し、その音楽様式は多様なことから、現在日本で行われているような漠然とした音楽様式の解釈よりはむしろ、「時代区分」とした方がより正確にバロックを捉えることが出来るだろう。

 

初期のバロックはそれまでの古典音楽に対して、不協和音を用い、感情的な表現をしたのが特徴となっているが、それは激しい流れと緩やかな流れが交互に繰り返され、そして主旋律に対してそれを基に対比する、または寄り添うに音階が展開されていく、古典的な対位法が避けられる風潮にあった。
しかし当時の人は、こうして発生してきたバロック音楽をどう評価していたかと言うと、「奇異」なものとして捉えていたようで、それはバロックと言う言葉にも表れているが、すなわち「歪み」である。
バロックの語源はポルトガル語で「歪んだ真珠」を意味することから、1600年代に現れてきた感情型旋律は、どうしても歌劇が主体この時代の人たちには、ある種のいびつなものとしての評価にしかならなかったようである。

 

だがこうした流れの中でバロックと言う、一つの音楽的様式をを確立したのは「ヴィヴァルディ」であり、彼はこうしたバロックの感情的表現法と、そのダイナミックな展開をして、最もバロック的な音楽を世に出した。
しかし私は思うが、やはりこの時代でもそれがオペラ中心、つまり歌にその主流があり、劇が主体だったことを考えると、バロックそのものが果たす役割は、歌や劇と音楽を切り離すことにあったように思えてならない。

 

つまりこうしたバロック以後に現れてくる「音楽主体」の様式をしてバロックが完成されたように思うのである。
そうした意味ではあくまでも個人的な見解ではあるが、バロック音楽の集大成はバッハにあったと言えるのではないか。
そもそもバロックと言う言葉は、それまで存在していた華美な装飾を施した芸術形態全般に対比する形で現れてきたもので、こうした風潮は勿論音楽にも現れたとしなければならないが、例えばフランスなどは、他でバロック様式が発展している中、古典主義の復活が起こっていることから、フランスに措いてはバロック様式そのものが存在していない。

 

このことを考えると、例えばヴィヴァルディが得意とした、まるで眼前に風景やドラマが展開されているような激しくも感覚的な表現は、もともと芸術一般における命題として漂っているものであり、ヴィヴァルディはテレビで言うなら、アナログ放送からハイビジョンテレビに切り替わったようなものと考えることができる。
つまり命題としては同じなのだが、それを以前より遥かに綺麗に、またダイナミックにして行ったと言うことではないだろうか。

 

そしてもう一方のバッハだが、バッハはどちらかと言うとダイナミック、感情的な部分より、その基盤を宗教音楽に持っていると考えた方が良いのかもしれない。
しかもバッハはバロックの後期に存在することから、バロック音楽の全てを研究し尽くしている。
だから彼がもしそうしたものの集大成としてものを考えなくても、結果としてそうならざる得なかったことは容易に想像できることである。

 

バッハの音楽は「壁紙」「地模様」だ。
これはどう言うことかと言うと、ヴィヴァルディは感情的煌き、または情感、ダイナミックな展開に主体を置いた、つまりゴッホの絵だが、バッハはこの話の冒頭にも出てきたように、主旋律とそれに対比する旋律、それとこうした旋律によりそうな旋律で音楽を構成していて、これはバロック期以前にもあった一つの様式とも言えるものだ、がそれを復活させていて、いわば基本を辿れば同じようなブロックが繰り返される様式であり、煌びやかな金の唐草模様が連続したようなものなのである。

 

だからここでは音楽は一定のリズムを刻んでいるのであり、考え方としては太鼓やメトロノームに近いと考えることが出来、こうした概念から言えば、バッハの旋律は古代の儀式や宗教に繋がるものを持っている。
古典芸術に対比する形で現れたバロック音楽、しかしこれらの集大成となったヴィヴァルディは、芸術が本質的に持つ感性の幅を広げることに行き着き、そしてバッハは更に古典的な人間が持つ基本的なリズム、鼓動と言ったものに行き着いたのではないか、そう私は思う。

 

こうしたバロック音楽、18世紀に入ると、急激に過去の音楽としての評価を受けるようになるが、変わって現れるロマン派の中にもバロック調を好んだ作曲家も多く、例えばブラームスなどは好んでロマン派にしては古典的な形式で楽曲を作っている。
しかし時代はやがて近代に向かうことから、本来芸術が本質的に持つものを命題として掲げ、また呪術的、太古神秘主義的感性と同じように、一定のリズムを遠くに持つ、こうしたヴィヴァルディやバッハのバロック音楽は、片方はこれ以後の音楽形態に吸収されていき、片方は近代の持つ合理主義の台頭により、その一つの時代を終えるのである。

 

「バロック音楽の系譜」・2に続く。