「男と女の境界」

Gender」ジェンダーと言う考え方がある。
これは社会的に性別を概念したものだが、いわゆる男らしさ、女らしさと言うべきもので、解剖学的性別とは無関係であり、その語源はラテン語で「genus)ゲヌス、またフランス語では「genre」ジャンルと言う言葉に由来している。
そしてフランス語を見てみれば分るように、「ジェンダー」の概念する性別とは「同じ系統や、傾向、同じ人々」の総体を指している。
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それゆえこれは外国語の文法上の「男性」「女性」「中性」をも表現するが、この考え方が発生してきたそもそもの発端は「野生児」の発見だった。
親の不注意から動物にさらわれ、また何らかの事故によって温暖な気候環境の大自然に放り出された幼児、または3歳以下の子供が、その大自然の中で他の動物の庇護、若しくは自身の生物的本能によって生き抜いた場合、この子供が15歳くらいに成長するまで、全く他の人間と接触せずに生きてきた場合、彼ら、彼女達の特性として男女の解剖学的特性は存在しても、その特性が男か女のいずれかの特性であることを概念しない。
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つまりここでは子供を産めることが「女性」と言う概念がなく、ただの自然な行為であって、そもそも身体的特徴による男女の概念が存在していないのである。
従って人間社会で言うところの男性、女性の区別はアイデンティティ、つまりは統一され連続した、自身が整合性に疑いを持たない考え方、文化、長い歴史に肯定された概念が必要になり、これが社会的性差「ジェンダー」と言うものになる。
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即ち基本的に男女を決めているものは社会であり、それは見かけ上、また解剖学的、生物学的特性の区別に鑑みて、片方を男性、片方を女性としなければ、そのどちらかの特性だけでは男性として、また女性としての確定がなく、ジェンダー・アイデンティティ(社会的性同一)とは、自身が社会的な意味で男か女を自認していることを指している。
従って我々が意識している男女の概念は、社会的に自分は男である、また社会的に見て私は女であると思っていると言うのが正しい。
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だがこの概念が考えられるきっかけとなった「野生児」の研究を考えるなら、生物的区分で男女の概念はそれがどちらに呼ばれようと意味がないことから、基本的には人間の社会で男女を分類するなら、その生殖的特徴よりも、むしろジェンダー・アイデンティティがより重要な意味を持つと考えられ、人間が実際に性交渉に至るまでには、性行動と言うものが必要になり、ここでは男女の明確な区分が存在して始めて性的欲望に繋がる事実を見ても、生物的、解剖学的な「性」にジェンダーは優先し、そしてこのジェンダー・アイデンティティの確立は、言語の発展によって左右されていると言われている。
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またsexは人間の性交渉を指す言葉だが、これにはもう一つの意味がある。
それは「分割する」と言う意味であり、男女、つまりは生殖の源流を指してもいるのであり、ここで概念される「性」とは生殖と言った狭義の「性」には留まらない。
人間の「性」にはいわゆる生殖と言う、限定された範囲を超えた部分が存在し、一般的にはこうした「性」を「余剰の性」と言うが、例えばその女が、その男が好きだとする場合、それが子供を作りたいだけに差し向けられる感情は、好きだと思う感情全体の何パーセントであるかを考えれば理解できるだろう。
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子供が出来なくても、この女でなければだめだ、この人の為なら今この瞬間でも死ねると思う感情が有るなら、そこには生殖と言う生物特性を超えた、つまり本能や欲望すらも克服した「性」もまた存在し得る。
人間の「性」はまた「生命」であり、多彩な人々の感情の中にある「人間的な有り方」もまた指しているのであり、こうした考え方から近年ではsexに対する考え方として、「ヒューマン・セクシャリティー」と言う概念もまた発生してきている。
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男女を下半身機能の違いによって分割し、またそうした中で性行為だけをとってこれを考えるのではなく、一人の人間が人として生きていく上で、「性」がどんな意味を持つかと言うことを考えるなら、個人的見解で恐縮だが、私は男女と言うもの全ての中で、性行為が占める割合などたかが知れていると思う。
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そしてこれは重要な点だが、人としての有り様と言う観点から「性」を考えるなら、実はこの「性」は限りなく不確定で流動的要素を持っていることから、時代によって価値観によってその定義は異なり、変化しやすいものであることを考えておかねばならない。
即ち人間の持つ正義感や道徳観は「感情」でしかなく、この感情は「環境」によってもたらされることから、人間社会のモラルは「拡大」と「収縮」を繰り返している。