「頂き物の処遇」(保勘平流行儀作法)

行儀作法は伝統的な様式がある程度決まっているが、これはその時代毎に失われ、発生する思想を最も合理的、かつ調和を以て解釈しながら変遷していく経過を持つ。

それゆえ、その作法を支える基本的な思想や現実が失われた場合、伝統的作法が逆に一時的に非合理的、調和を持たない時期を生じせしめる。

既に日本の封建制度文化が否定されて70年以上経過した事から、各所で行儀作法も変遷してきているが、この変遷の部分は家元や宗主などが持つ知識的広がりを超えず、言わば権威を持った個人的解釈を元に、現代行儀作法が構成されている。

厳しい言い方をすれば宗主、家元の流れを汲む行儀作法が不作法になっている気がするので、以後私の居住地名を借り、これを冠した現時点での行儀作法の合理性、時代調和の在り様を考えてみたいと考え、「保勘平流行儀作法」(ほうかんひらりゅう・ぎょうぎさほう)を記録して行く事にさせて頂いた。

第一回は「頂き物の処遇」です。

基本的に相手の手に在る物は、相手がその全権利を有している為、扱いは着衣やその他バッグ、名刺などと同じ扱いをする必要があり、ジロジロ眺めたり物欲しそうな態度は厳禁だが、例えば名刺などは提示された時点での所有権は決まっていない。

「名刺は頂いても良いですか」と了解を取って、それが許諾された時点で所有権が移行する。

相手が以後の付き合いをしたくない場合、或いは証拠を残したくない場合、名刺は提示されても、最後に回収される可能性が残っているものだと考えるのが正しい。

同様に訪問してきた相手が手に持っている菓子箱は、その時点では自分が貰えるものだとは決まっていない事から、これに関心を持ってはならず、例え目の前に置かれてもこの段階では所有権の移行が為されていない。

慌てて礼を言って、それに手を出してはならない。

また人に物を贈呈する場合、人間的感情の交流を建前としなければならない事から、これが何らかの等価交換条件の為である事を伺わせる行動は交渉、個人的付き合いのどちらに際しても不利になり、状況に拠っては相手に失礼になる。

「物を持ってこなければ家に入れない、そんな狭了な人間と見られているのか」と、言う事にも為り兼ねない。

従って人に物を贈呈する時は相手の家や部屋に入り、時候の挨拶と訪問目的を告げた後手渡すのが最も合理的になる。

玄関などで手渡すと、相手は自分の案内と頂き物の処遇を同時にこなさなければならなくなる事を考えても、慌てて手渡すのは理に適っていない。

尤も、自分が持っている菓子箱に関して相手に気を遣わせない為、早めに手渡すと言う考え方も有るが、これはこれでその相手と言うのは来客が持っている菓子箱1つで心が揺れる事を前提としている為、大変失礼な考え方と言える。

贈答品を風呂敷などに包んできた場合は、必ず自分で風呂敷を開いて手渡し、風呂敷はバッグにしまうか、或いは右側後方に置くのが良い。

これは何故か、日本人は右利きが多いので、右側に置けば忘れてしまわないからである。

一般的に利き手反対側に対する人間の注意力は薄い。

さて、こうして所有権が移転する菓子箱だが頂く際、「このようなお気遣いは以後なさらないでください」くらいの形式謙譲表現は必要であり、贈る側も「つまらないものですが」と言う謙譲は必要である。

ひと昔前「つまらない物を私にくれるのか」と言う考え方、どうせ形式的な事なら謙譲の言葉は無意味と考え、素直に「どうぞ」「有り難うございます」が正しいと言う者も存在したが、この考え方は20年前の価値観である。

現在60歳以上の年代はバブル経済を経験している事、更には色んな経験を積んでいる事、残された寿命の関係から「途中経過」を面倒に考える傾向が有るが、こうした多くの者が先の見えない時代では、逆に形式上謙譲は一定のクッションとなり、強硬なイメージや独善的なイメージを払拭する効果を持つ。

現代社会の労働従事者年代、若者の感性は空白の30年の最中に生まれた者、この30年の世界の中で暮らしてきた者が多い事から、強硬さや力強さを敬遠する。

自信が無い事を普通にし、常に上手く行かない経験しかない者が圧倒的に多い。

現在60歳以上の年代、主に団塊の世代とこうした実労働者年代の基本思想は全く逆の関係にある為、謙譲表現は少し過ぎた部分のマイナスと、大きく足りないマイナスを比較した時、マイナス部分が少なくなると言う意味での消極的肯定となる。

そして頂いた菓子箱などは、どこに置くかだが、できるだけ頂いた人から離れた所で、その部屋の中で一番格式が有る所にもっていく。

この事で所有権の移転が間違いなく行われた実感が出るのであり、いつまでも目の前に置いていたのでは所有権の移転が曖昧になり、これでは「私の贈ったものは必要ないのか・・・」と言う事になる。

またこれも団塊の世代以上に多いが、頂き物を仏壇にお供えする者をたまに見かける。

気持ちは分かるが、今や田舎でも家制度が崩壊した日本では、家制度の最高峰は権威にならない。

仏壇は既に死者を弔う際に関係するものの範囲を出ず、従って現代社会では物を贈って、それが仏壇にお供えされた事をして、最大限の感謝表現とはならない。

むしろ、「私の贈った物を縁起でもない」と考える傾向が出始めているのであり、神棚にお供えするのは現在でも最高峰の感謝意思表現になるかも知れないが、仏壇に供える事は既に不作法の領域に入っている。

自身の先祖、その供養は自分にとって最も重要な精神的部分だが、それはあくまで自分に取ってであり、他者は本質的に関係が無い。

自分の先祖が他者に取って尊敬に値するか否かは他者の自由であり、ここで頂いた物を仏壇に供えれば「価値観の強要」となる。

ではなぜ神棚は良いのかと言えば、神の概念は特定の先祖などに限定されない「公」の要素を持つからであり、仏壇と神棚では「個」のフレーム、「公共」のフレームと言う共通概念の理解、「フレーム」の大きさに大きな違いが有る。

ただし、贈り物を頂いた人が帰ってから、自分がそれを仏壇に供える価値観は失ってはならないところであり、これを本当の意味で謙譲と言うかも知れない。

「つまらない物ならいらない」だの一度は遠慮する形式謙譲に「虚」を見るより、形の感謝を見せようとして自身を拡大してしまう愚かさと不遜を慎むべきである。

最後に「結婚してください」と言われ、それに返事をして指輪を貰った場合、もし気が変わって他の男性と付き合う事にしたらどうなるかと言えば、指輪は婚約の条件に拠って拘束を受けるので、1度でも婚姻が成立しないと所有権の完全移転とはならない。

婚約が破棄された時、求められれば指輪は返却しなければならないが、同じ指輪でも誕生日のお祝い、何かの記念日に際して頂いたものは、その期限に措いて契約が成立している為、所有権の移転が完了している。

婚約指輪とは違って後に返却する義務が無い。

人に物を贈るとは、どう考えたら良いかと言えば、饅頭を人にあげた結果を原則にすべきで、贈った時点で消費されてしまう饅頭は後戻りが利かない。

婚約に饅頭を贈る人はいないかも知れないが、婚約の印として饅頭が贈られたとして、それを食べてしまってから、婚約破棄になったら饅頭は返す事が出来ない。

消費されてしまった饅頭は返せなくても可で、たまさか物として形が残っている指輪は返せるから、返せと言うのもおかしな話であり、人に物を贈る、贈られるとはこう言う事で矛盾を生じさせない覚悟を貞観とする。