「自分の演奏を手本としない」

物作りに措ける「物」の大きさと作られた物のディテールは、その製作者が置かれている環境に比例し、小さく向かうか大きく向かうか、或いは精緻に向かうか雑に向かうかの分岐点は「一般常識」と言う事になる。

それゆえ物を作る者は「普通の生活」を知っておく、普通の暮らしをしていないと、世界の動きに連動する「一般常識」に付いて行けず、誰かの物まねを続けていく事になり、例えば2年、5年先の物を作る者は最も「今」を理解する者と言える。

未来は本当は存在せず、基本的には「現在」に措ける予測、その人間の希望と言う事になるが、その予測は今と言う「現実」からしか生まれず、今は過去のあらゆる経験から得た記憶によって過去の多くの中に集積された状態で認識される。

この事から過去を忘れない者、今を悩み、あがく者ほど、特に自己認識していなくても予測や希望が未来に措ける一致点を生み易いが、一方で一般大衆の生活と言うものは「少し先の未来」を描き乍、今を生きているものであり、この点で言えば2年先、5年先の「一般常識」は「今」の時点では理解されない。

結果として今流行している物、生活スタイルの中に有る者は「今」に生きておらず、少し先の未来に生きている事になり、この分だけ今をあがく者よりは浮ついた感じになるが、現代の作家や製作者は皆こうしたレベルを出る事は無く、ゆえに適当にお洒落だが、どこかでは感動が無くなる。

つまり少し先の未来の、その先の未来を見せることが出来ないのである。

またこうして一旦どこかで自分の方向性が決まってしまうと、それを守る姿勢に入り、これを生活スタイルや作風としてしまった時、作られた物は籠に閉じ込められたような物しか出来ず、そこから資本力を少しでも失うと、作られた物が容量的縮小、簡単に言えば作る物がどんどん小さくなって行くのであり、また洗練と言う一見安定に見える怠惰は作られた物の力を奪う事になる。

そして物の大きさで重要なのは大きな物と、「一般常識」の範囲を超えて小さい物は等しいか、もしかしたら「一般常識」を超えて小さい物の方がスケール的に大きくなると言う点であり、椀でも直径12cmの椀と直径3cmの椀では、直径3cmの椀の方が製作的には難しくなる事に同じであり、この点では極端に小さい物は極端に大きな物に同じなのである。

その上で今をあがく事無く、少し先の未来を見て物を作る者の小ささとは、やはり「一般常識」の小ささなのであり、この小ささは視覚的には極端に小さな物よりは大きいが、本質は極端に小さな物には遠く及ばない事になる・・・。

以前知己を得たアルゼンチンの女性ピアニストはこんな事を言っていた。

「自分の演奏を手本とはしない」

「自分の演奏が手本になったらそれでお終いよ・・・」