| 「小官は皇国興廃の関頭に立ち、将兵に対し、人として堪へ得る限度を遥かに超越せる克難敢闘を要求し候、黙々として之を遂行し、花吹雪の如く散り行く若き将兵を眺むる時、当時小生の心中、堅く誓いひし処は、必らず之等若き将兵と運命を共にし、たとへ凱陣の場合と雖(いえど)もかわらじとのことに有之候」
これは第8方面軍司令官、今村均大将に「安達二十三」(あだち・はたぞう)中将が宛てた遺書の一部だが、ここで安達中将は「わが身は戦場に散って行った多くの若者と共に有りたい」、つまりこうして戦場に有って、あたら若い命を自身の命令によって散らせて行った、その時から既に自分の身の処し方は決まっていた、それは「死」しかない・・・と言っているのである。 安達二十三中将が生まれたのは、明治23年6月17日、名前の二十三(はたぞう)は彼の生まれた年に由来していたが、陸軍士官学校第22期生、陸軍大學校卒業後は参謀本部鉄道課勤務が長かった安達は、支那事変が起こると、歩兵連隊長、師団長、、そして北支方面軍参謀長と中国を歴戦していく。 またその風貌は眉が少し下がり、目もこれにあわせたように少し下がった温厚な顔だが、肥満気味のその体躯はなかなかの重圧感があり、見た目は少し厳しそうかな・・・と言う感じだったが、無口で決してお上手などは言えない彼が大変な部下想いであることは、彼の下で働いて来た者全てが語る安達の人物評である。 こうした安達の姿勢は「この人の下であれば決して見殺しになることはない、絶対見捨てない人だ」と言う大きな信頼に繋がっていた。 安達が中国から第18軍司令官としてラバウルに赴任したのは昭和17年11月、だがその3ヵ月後、昭和18年2月にはガダルカナル島がアメリカ軍によって陥落させられ、ソロモン諸島と東ニューギニアはアメリカ、オーストラリア連合軍によって脅威に晒され、これに対して日本軍は10万の兵士を増員するが、各師団は分断され陸の孤島状態で、全く兵力を発揮することができず、そのうえ昭和18年6月30日にはナッソウ湾にアメリカ軍が上陸、これにより増員された第51師団は、壊滅の危機を迎えることになったのである。 司令官安達は第51師団長、中野中将に対し、こうした危機に際して決して玉砕を急ぐな・・・、と打電しているが、こうした安達の温かい打電に感激した中野中将は、かえって決死の覚悟を決め徹底抗戦するも、昭和18年9月4日、5日には今度はオーストラリア軍がさらに進軍し、ここに第51師団の命運は尽きる。 しかしここで安達からまた打電が入る。「撤退せよ」、日本軍ではめったに無い命令だが、安達は1人でも多く生きて帰れ・・・と言うのである。 安達はサラワケット山の麓のキャリ部落まで指令部を進め、毎日山から命からがら、よろけながら現れる日本兵を、自身が泣きながら出迎えていた。 万事窮す・・・だった。 そして普通ならここで考えることはどうだろう・・・、当時の日本軍なら潔く・・・が普通だったろうし、それしか道は無いと判断したに違いない。 安達はまた原住民に対しても、自らが杖をつきながら酋長に面会して、膝をついて協力を求めていったが、こうした安達の無私で真面目な姿勢は原住民達にも感動を与え、やがて原住民達は進んで自分達の食料を、日本軍に提供してくれるようになって行ったのである。 あれほど肥満だった安達の体重はこのとき48キロにまで減り、持病だった脱腸が悪化、歯は殆ど抜け落ちていたが、安達はそうした自分を顧みることも無く、密林を超えて河を渡り、どんな遠いところにある小部隊であろうと訪ね、彼らを激励していた。 だが昭和19年12月、こうして息を潜めていた第18軍に再びアメリカ、オーストラリア連合軍の攻撃が始まる。 博物館の軍刀・後編に続く |