「君、死んじゃいけないよ」・2

昭和20年4月、小沢は海軍総司令官、連合艦隊司令長官、海上護衛司令長官に就任したが、このような重責の兼務を指示したのは鈴木貫太郎内閣の海軍大臣、米内光正である。
米内の胸のうちには「終戦」が意識されていて、こうした事態に海軍をまとめられるのは部下思いで私欲が無く、それゆえに人望や人気があった小沢提督以外に人選が無いと考えたからだが、事実終戦を迎えると、小沢は将兵の自決を厳しく禁じ、厚木航空隊が徹底抗戦を叫んだため、その説得に向かわせた寺岡謹平に対してもこういっている。

「君、死んじゃいけないよ、宇垣中将は沖縄で飛び込んだ、大西中将は腹を切った、みんな死んでいった、これじゃ戦争の後始末を誰がつけるんだ、君、死んじゃいけないよ」・・・小沢は寺岡の手を握り締めるのである。

小沢は酒が好きで女も好きだった。
そのごっつい体格といかつい顔に似ず、なかなかの美声で歌を唄い、料亭ではいつも女中たちから「だるまさん」と呼ばれ親しまれていたが、その一方ではドストエフスキーなどのロシア文学にも通じ、「中央公論」などの雑誌も講読していた。

小沢は戦後、清貧の生活を送り、むかし部下だった者たちの世話をする傍ら、戦史記録を書き続け、昭和41年11月9日、この世を去った。80歳だった。
4日後に行われた葬儀では多くの元部下や縁者に混じって、アメリカ大使館からも提督小沢に対して弔意を表す使者が訪れていた。

連戦連敗、敗軍の将である小沢・・・、しかしおかしなものである。
砂漠の狐ロンメル、騎士道のクルーゲ、みななぜか同じにおいがする。
今夜は最後に、なぜ小沢がこのような立場にありながら、戦犯として処刑されなかったのか、また小沢のスケールを示すエピソードが多く残されているので、その1つを紹介して終わりにしよう・・・。

日本軍第25軍のマレー進攻に際しては海軍内部から警護の危険性、特にコタバル上陸援護の危険性が大きかったのだが、このとき海軍の援護任務の範囲が焦点となったおり、当時南遣艦隊司令長官だった小沢は「たとえ全滅してでも警護する」と言い、事実この小沢艦隊の奮闘によって、第25軍は予定通りの作戦を遂行できるようになった。

こうした小沢の働きに感謝した第25軍司令官・山下奉文中将は、シンガポールを陥落させた後、謝意を表明しようと、捕虜にしたイギリス極東軍司令官パーシバル中将ら、多数のイギリス兵や将校らを整列させ閲兵式を行い、小沢を招いたが、小沢はパーシバル司令官の前まで来ると、姿勢を正し敬礼をする。
「閣下は国家のために十分な働きをされました。今後はゆっくり休養されることを希望します」
この小沢の言葉は日本語だったことから、もちろんパーシバルには通訳が必要だった、また一つ間違えばこうした言葉は嫌味にも聞こえ易いが、パーシバルの目からは通訳が英語で小沢の言葉を訳す前から、うっすら涙が滲んでいた。

言葉は通じなくても、小沢の心がパーシバルには通じたのだろう・・・、こうしたところが小沢であり、パーシバルはこれに対して小さなふるえる声で「サンキュー」と答えている・・・。