| 第二次世界大戦は、本当のところ日本が真珠湾攻撃を開始しなければ、この段階では世界大戦にはなっていなかった。 ドイツ、イタリアのヨーロッパアフリカ戦争だったが、ドイツ攻撃をもくろむアメリカの作戦は、対立していた日本を追い込み、そこから戦争大義を得てドイツ攻略の足がかりとするもので、この点ではその戦争視観において、平面と立体ぐらいの差があった。真珠湾攻撃は東京時間の12月8日、午前7時45分、第一次攻撃隊の先頭を飛行する淵田総指揮官機に搭乗する、水木徳信一等兵曹のモールス信号「ト」の連送で始まった。突撃命令の「ト」であったが、同日午前7時52分、淵田中佐は水木兵曹に「トラトラトラ」の打電を命令する・・・、すなわち「われ、奇襲に成功せり」である。 真珠湾攻撃を巡っては、もともとこの作戦は海軍、山本五十六が推していた作戦であり、その背景にはアメリカを良く知る山本が、こうした奇襲作戦である程度勝利を収めた時点での講和がその作戦目的だった。 戦争を始めなければならないときの首相、その決断をしたとき、人間はどう言うことを考えるものだろう。 太平洋戦争の開戦を決意した日、東条はいつものとおりに帰宅し、まずは先祖に挨拶をするつもりだったのか仏壇にお参りし、それから婦人に1人にしてくれと言って早めに休んだようだが、その夜明かりが消えた東条の部屋からは、遅くまで東条の押し殺した嗚咽が聞こえていた。 天皇陛下のご期待に最後まで応えられなかった、もとより陛下のためであれば、この東条、命をかけてお仕えする覚悟なれど、大勢の意そこ(開戦)にあれば、我、大勢をおもねる者としては、これに抗すことかなわず、それをして陛下の御心に翳りを生じせしむるを、ただ唯、申し訳なく・・・。 私が幼い頃、神棚の隣には昭和天皇と皇后、明治天皇の写真が飾られていて、大人たちはそこを通るたびに姿勢を低くして頭を下げていた。 東条は戦争の恐ろしさを分かっていて戦争を始めたかどうか、おそらく分かってはいなかっただろう。 誰でも、もしかしたら戦争を決断しなければならない状況のとき、総理大臣の椅子は躊躇するだろう。 軍人と言えども平時のときは1つの組織であり、そこに求められるのは高い事務処理能力だ。 随分卑怯な話である。 真珠湾攻撃で大勝した日本は、国内中が日露戦争当時の再来と湧き立ち、関東大震災以降ずっと続いていた不景気に加え、その後の世界恐慌でズタズタになっていた民衆の生活の中に光を差し込ませた。 そしてこうした戦況に伴い、東条の人気も上昇していったが、現実は小さな風船が大きく膨らんだだけのことであり、このことは現在の日本でも余り変わらない。 ここに日本は、本来の実力以上の力を自国に信じ、その根拠となるものが軍事力しかなかったことに、しかもその軍事力は継続作戦が可能なものではなかったにもかかわらず、ナショナリズムと言うプライドに押され、方や追い詰められた資本主義の行き場としての、帝国主義から戦争にひた走っていったのである。 中国に追い抜かれ、その立場も風前の灯にありながら、それでも世界第3位の経済大国、人々は休日になると旅行やゴルフに出かけ、困った金が無いと言いながらも、多くの人は週末ショッピングを楽しみ、豪勢な食事をし、その生きることを楽しんでいる。 しかし現実の日本は負債が、公式見解でも1000兆円を超え、実に国家予算の10年分以上の借金をしていて、その上まだ自分で紙幣を印刷して金を増やしているのであり、増税は避けられないとしながら、膨らんでいく風船の空気を、さらに入れ続けているのである。 |