「輪島塗修理大系」

明治から昭和50年代後半まで、輪島塗の修理価格は購買価格の「七掛け」と言う慣習が存在した。

これは例えば1万円で買ったお椀なら、その修理価格は70%の7千円と言う形だが、こうした体系が確立されて行った背景には「激動」に拠る変化を見逃す事はできない。

.

明治の大政奉還から変化していく庶民文化や貴族文化、第一次世界大戦、関東大震災、第二次世界大戦という動乱と共に変化して行った、もっと言えば何がしかの破綻が存在して、そこから生産が伸びていく図式が存在していた訳で、この中での消費はまだ一般庶民にまで及んでいない。

.

貴族、皇室などの特権階級、成功した明治の事業創始者、旅館やホテルなどと言った、ある種一般大衆の消費とは別世界の消費体系の中に輪島塗が在り、ここで修理費用が購買価格の70%だったと言う事は、輪島塗の価格は製造原価の200%だったと言う事を指している。

.

修理で70%なら、その修理でも経費や何某かの利益は必要になる。

そこで修理に拠る利益は20%くらいまでが許容されたのであり、これを逆算するなら製造に1万円かかったものなら、価格は2万円だったと言う事である。

.

しかも例えば大正期、昭和20年から40年までの消費は旅館やホテルの耐久資材としての需要である事から、修理できる事を謳い文句としていた輪島塗とそれを消費する旅館やホテルとの間で修理費用に対する暗黙の相互認証が存在していた。

「まあ、2割くらいは儲けないと君もやっておれんだろう」と言う消費側の理解、それに修理費用が新品価格の70%であれば、もし新品を作っても20%の利益は確保される塗師屋の妥協価格だった。

.

旅館やホテルは景気が良ければテーブル200台、椀1000と言う単位で輪島塗を購入し、景気が悪い時はそうした中に修理で新品同様になった輪島塗を織り込んでいけば、その分30%の経費節減になった。

ここに需要と供給が相互に安定した形を築いていた。

.

しかし、やがて発生してくるプラスティック整形技術の発展により、旅館やホテルの需要は輪島塗とは圧倒的に価格が安いプラスティック製品に切り替わり、ここから輪島塗は次の消費流通である「デパート」へと進出する事になる。

.

そしてこのデパートの前には問屋と言う窓口が存在した事から、輪島塗事業者「塗師屋」は営業が省力される「問屋」へ依存し、折から発展してくる電話機の普及がこれを増長した。

今までそこまで出向かねばならなかった事が電話で済むようになったのである。

.

だがこうした形態は楽になった分、価格に上乗せされる事になり、その当初輪島塗業者が付けた価格に20%上乗せが問屋価格、そしてデパートが30%を上乗せして、製造価格の200%売りだったものが、やがて旅館やホテルの需要低迷からデパートへと流れる輪島塗業者が増大し、問屋との取引価格は問屋側に倒れていく事になり、それに乗じてデパートも取引価格をデパート側に引き寄せるようになって行く。

.

こうした背景から、デパートや問屋に拠って2重3重価格になって行った輪島塗は、その製造原価の算定に振り回される事になったが、この段階で輪島塗は耐久資材と言う二次利益を生む為の道具としての役割を終える。

.

商いに店舗が必要なように、旅館やホテルなどは輪島塗りを設備投資としていたものが、やがて消費が個人に移行し、漆器は趣味、嗜好品となって行ったのであり、ここで一番崩れたものは修理の形態だった。

.

それまでは修理も設備投資としての需要が存在したが、これが無くなって行くと、修理はサービスと言う形態になって行く。

大きな取引をして貰っている人には「いいですよお金なんか・・・」と言う事になるが、例えば全く取引が無い人が椀1個を修理してくださいと言った時、ここではどれだけの金額を貰っても利益が出ない状態になって行った。

.

「輪島塗は塗り替えれば新品同様でいつまでも使えますよ」と言う宣伝文句は設備投資としての需要を基盤としたもので、本来一般大衆には対応しにくい状態のものだった。

それゆえ、現在でも輪島塗は修理を歓迎しているように謳いながら、その実修理は門前払いの状態か、或いは途方もなく高額になるかの狭い門となっている。