「いつ来るかは、全ての時」

昨日、2016年12月12日は氏神である大幡神社(おおばた神社)、外神社(そと神社)の宮司が、氏子の家の神棚の札を入れ替える、簡単に言えば「年替わり」の式の為に家を訪れた。

年に1回の事なので、前日12月11日には念入りに神棚を掃除し、榊や酒、塩に水なども供えて用意していた私は、この際神棚の「垂れ紙」、「福寿」とか「招福」とか書いてあるあれだが、飾り紙を間違って破いてしまった。

それで既に日もとっぷり暮れてホームセンターまで買いに行くのは寒いし億劫だった私は、仕方なく、垂れ紙を自分で書こうと思い筆を取った。

そして書体としては篆書体に近い、古い様式の「福」一文字を大きく書いたのだが、どことなく全体が揃っていなくて、しかし何故か笑っているようにも見える「福」になってしまった。

「いやいや、これは失敗だったかな・・・」と思っていたら、これを見ていたスタッフが「これはいいじゃないですか・・・」と言って写メまで撮影しだすのを見て、主体性のない事だが、これでも良いのかなと思って、これを仕上げにした。

しかし翌日、数時間後には神主が来る時間になって、昨日の垂れ紙の事が気になり、もう一度書き直そうと筆を取ったのだが、どうしても昨日の字を越えた字にならない。

昨日よりは落ち着きも有り、体力も精神状態も良いはずなのだが、確かに字は整った形になっても、昨日のような「笑っている福」には、どうしてもなって行かないのである。

これはだめだ・・・。

仕方なく私は昨夜の「福」の下に「梅鶯」「うめうぐいす」、薄いピンクが少しだけ紫側に傾いた色の紙を敷き、それを神棚に飾りつけたが、これがまた何とも良い感じで、笑っている福が恐くも見える、私が子供の頃には良く見かけた独特の恐さがある神棚になったのである。

暫くして、そこへやってきた神主、何も言わず神棚を見て黙り込み、やがて「何か古式ゆかしい感じですね・・・」と呟くのである。

事を為すのは不思議なもので、例えば輪島塗でも落ち着いて体調が良いから良い仕事になるとは限らない。

それは慌てている時、疲れてもう休もうと思っている如何を問わず、時々チラチラと現れてくる。

その反対に体調も万全、仕事が捗って仕方ないような状況の時も有るが、この場合で手順を一つ間違えていれば、仕事が捗った分、後の手直し仕事を増やしている事になる。

実は、私はこれを一番恐れる。

人から何か醒めている、冷たい、情熱や熱意が感じられないと酷評を受ける私の根本的な部分はここに有り、私は絶好調を一番警戒しているのであり、もっと言えばこれを避けようとしているかも知れない。

天の采配はいつやってくるか解からない。

これは全ての時に隙間なく詰まっている状態と言え、万全の準備をし体長を整えているから天の幸運が訪れるのではなく、それが訪れていたとしても、その事に気付かない時すら出てくる。

絶好調の時は光の側しか見えない。

不調の時は闇しか見えない。

だが現実には光も闇もあざなう縄のように連続して隙がなく、そのそれぞれに天の采配はやってくる。

笑っていながら、恐ろしい・・・とはまさにこの事ではないかと思う。