種田山頭火(たねだ・さんとうか)本名、種田正一は山口県西佐波令村で大種田と呼ばれた大地主の家に生まれるが、父親の放蕩三昧を苦に、母親が山頭火11歳のときに井戸に身を投げ自殺する。
その後旧制山口中学から早稲田大学文学部に入学するが、もともと繊細な神経だったこともあり心を病んで中退、故郷へ帰って静養しながら家業の造り酒屋の手伝いを始める。
明治43年に結婚し1児をもうけ、また明治44年には萩原井泉水が主宰する俳句雑誌「層雲」に寄稿、大正2年には井泉水の門下となって「層雲」の選者としても参加するようになる。
だが家業の造り酒屋は父親の放蕩と山頭火自身の酒好きのため破産し、妻子を連れて熊本市に移るが、ここで始めた古本屋の経営がうまく行かず失敗、見るに見かねた妻の実家側の親族によって大正9年2人は離婚させられる。
その後山頭火は東京へ出るが、その間に父親と弟は生活苦から2人とも自殺、大正12年関東大震災により被災、命からがら熊本の元妻のもとに身を寄せた。
しかし相変わらずの生活苦から山頭火はついに自身も自殺をはかるが未遂に終わり、熊本市内の報恩禅寺住職に助けられ寺男として再び生活を始める。
大正14年、得度した山頭火は「耕畝」と名乗り、大正15年から寺を出て雲水姿で西日本を中心に俳句を作りながら旅をする。
昭和7年故郷山口の小郡町に「其中庵」を開き、昭和14年今度は松山に移り「一草庵」を開くが翌年この一草庵で生涯を終えた。
これが種田山頭火と言う人の大まかな軌跡だが、何とも波乱に富んだ一生である。
山頭火がクローズアップされたのは、実は昭和50年頃雑誌太陽が彼を取り上げたことがきっかけとなっている。
それまでは一部の俳人達の中での評価だったのだが、このことがあってから山頭火は全国的な支持を受けていくのである。
その俳句の様式は5,7,5とか言う様式に全くとらわれず、ストレートな表現から「自由俳句」と呼ばれた。
この自由俳句では明治初期に主に長野で活躍した「井月」(せいげつ)に憧れ山頭火も長野を訪れているが、当時を語る関係者から洩れ聞こえる話は山頭火のことを褒める者ばかりではない。
彼はこの地で肺炎をおこし、地元有力者の家に2週間滞在していた。
山頭火と井月の決定的な差は「俗」か「聖」かと言う事になるだろう。
井月は本当に乞食をしながらあてもなくさまよって俳句を作ったのに対して、山頭火は知り合いを頼っての旅になっている。
また山口から松山へ庵を移したその理由も関係者は一様に口を濁すが、女性関係の匂いが拭い去れない。
酒が好きで、煙草も吸い、豆腐を好み温泉にも行き、それらが彼を慕ってくる俳人や地元有力者によって支えられた生活を嫌ってはいたが、そこから抜け出せない山頭火の人間臭さ、このことが彼を良く言わなくても後に関係者によって石碑や句碑を建てさせる原動力となっていった。
さらに山口県の地元では破産したとき地元関係者に大きな迷惑をかけることになったため、十数年前記念碑を建てるとき反対運動まで起こるのだが、時代の変遷と共に地元の恨みも薄れ、今日山頭火の石碑は無事建てられている。
種田山頭火、彼は悟りの道で無常を説いたのではなく、侘び寂びに生きたのでもない。
彼の俳句は「生きること」にあったのだと思うのだ。
そしてその生きることがまた自身の死に場所を探す旅であったのだろう。
後世彼の句を愛して止まない根強いファンが一様に彼をイメージするのは、サクサクと雲水姿で道を行くその人ではないだろうか。
山あれば、山を観る
雨の日を聴く
春夏秋冬
あしたもよろし
ゆうべもよろし