「時の流れは優しいか、残酷か」

日本がポツダム宣言を受諾後、満州帝国は皇帝溥儀(ふぎ)が退位し、連合国のソビエト軍が進駐してきた・・・、これで終戦とともに勃発していた暴民の横行による混乱は収まり、秩序が回復することを期待した満州の新京、つまり一般日本人居住地の人たちは実際にソビエト軍がアメリカ製のジープに乗って到着した瞬間から、敗戦国の人民であると言う現実を突きつけられた。

「ダモイ・マダム」と声をかけながらソビエト兵は女性を物陰に連れて行き暴行、抵抗する家族は銃の台尻で殴られるのはまだ良いほうで、射殺されたり強制連行されたりし、家にあった金品は収奪され時計や万年筆は例外なく没収、着ているいるものは剥がれて放り出された。
自身も身ぐるみ剥がれた男性の目の前で、幼い姉妹と妻が裸にされ数人の兵士たちにかわるがわる暴行されていった家では、その後家族全員が自殺した。

こうした略奪、暴行は新京のあちこちで行われ、当時自分の娘を守るために、母親自身がソビエト兵への「捧げもの」に志願した者もいたが、そうした彼女たちの思いは結果として反映されることは無かった。
また奉天では16837人の男性が数日の労役を名目にソビエトへ送られ、強制労働につかされ、チチハルでも20歳から45歳までの男性が、こちらはソビエト送りにはならなかったものの、連行された。

日本へ帰還しようとする人々の姿は悲惨だった・・・、歯が欠けた下駄を片方だけ履き、片方は裸足で背中に幼児を背負い歩く母親、汚れてボロボロのリュックを担いでソビエト兵に怯えながら、また中国人から石を投げつけられないかと小走りに歩く男性・・・、力尽き道端でうずくまる母親のそばに立つ不安そうな幼い姉弟、倒れた両親は既に死んでいたのだろうが、その傍で泣き叫ぶ力も無く死を待つ幼児、途中で暴行を受けたのか、頭から血を流した男性と、片足を引きずるように歩く女性、こうした中で子供たちは親からはぐれ、また自身の命が尽きようとしていることを悟った日本人たちは、僅かな望みにすがり中国人に自分の子供を託していったのである。

ポツダム宣言が受諾された時点で満州の全ての権益は、中国に帰属されることがポツダム宣言にも明記されていた・・・、しかしソビエト軍は全ての銀行から金を奪い、施設の殆どを収奪して、思うが侭のありようだったが、こうしたソビエトに対して勿論中国政府も抗議したものの、何も改善されず、中国は莫大な損害を被っていた。
思うに満州と言うところは不思議なところである、100年もの間ここには現実的統治に成功した者がいなかった。

列強諸国がみんなで狙っていながら、日本、そして敗戦でソビエトが、そして中国国府軍が、その直後に中国共産軍の進駐である・・・、ここに人は何をみたのであろうか・・・。
日本が満州政策に向かったのは単純な拡大主義、また帝国主義、言葉では何とでも言えようが「侵略」であったことは間違いないだろう、こうした背景から日本の敗戦と、このような引き上げの際の悲惨な光景はある種「運命」だったかも知れない。

だが、満州に渡った日本人の中には大陸に夢をはせ、そこに自身の理想を求め、満州で骨を埋める覚悟をした者たちも多かったのではないか、「王道楽土」「五族協和」と言うスローガンは、まるで日本の身勝手な見方だったし、そこに本質は無く空しいものだったかも知れない、その結果が3000万人の満州人たちから、最後石を投げられ、憎しみの視線に晒されながらの日本人引き上げになったのだろう・・・が、満州引き上げの悲惨な記録の中には、その絶望的な状況だからこそ光り輝くさまざまなエピソードがちりばめられた。
敵国の子供にもかかわらず、乳を求めて泣く子どもを抱きかかえた者がいた、息も絶え絶えの母親の言葉に「よし、分かった心配するな」と答えた者がいた、両親とはぐれ行き場を失った子供を家に連れ帰り、食事を与え服を着せてくれた者がいた。

こうした「満州人の親切」は中国と言う長い歴史の中で、戦乱を幾度も潜り抜けてきた民族ゆえの博愛精神がその根底に潜んでいることは確かだろうが、それ以上に満州へ移り住んだ日本人が、全てただ他国を陵辱し収奪し、虐げようとした者だけではなかったことをもまた、物語っていると私は信じたいのである。
日本軍が中国で行った残虐な仕打ちは確かに事実だろう、だがそんな日本の姿勢に義憤を感じ、擁護しようとした日本人もいた・・・、その結果が敵国の子供に乳を与えてくれた者を、服を着せてご飯を食べさせてくれた者に繋がっていたと信じたいのである。

然るに戦後60年と言う歳月を得て中国から帰国した「中国残留日本人」に対する日本政府の在り様は何だ・・・、この国民の在り様は何だ・・・、帰ってきても言葉が通じない、経済的にも年金も付かなければ、親族も負担を恐れ、「今頃戻って来られても・・・」と言う声さえ聞こえてくる。
苦難の下から僅かな望みに全てを託した母親や、その意を汲んだ満州の人たちを何だと思っているのか。
帰国して家族に会っても更に孤独を憶える、やはり中国の育ての親のほうが良い・・・と言う彼等の言葉を自身に当てはめて、噛み締めるがいい・・・、国家の誇りとはこうした場面での話を言うのだ。

もはや日本の中では「中国残留日本人」と言う言葉を聞いても「何それ・・」と言う返事が返って来るかも知れない、また「ああ、そう言えばそうしたことがあった・・・」ぐらいにしか憶えていない人もいるだろう、
しかしだからこそ、私はこうして書きとめずには置けない、また意見が対立してもこうした事実や歴史を忘れてはいけない・・・と思うのである。