中国科学院、地球物理学会理事長の「顧攻叙」(こ・こうじょ)はまず自身の補佐役に「査志元」(さ・しげん)を選んだが、その査志元とその関係研究者、それから自分の後輩などを選任して、どうにか国家地震局の形は整えたが、具体的なプランはまだ全く見えていなかった。
「顧、同志、私は人民に必ず地震が起こる前にそれを予測する、これは中華人民共和国の威信にかけて約束する・・・と言った。どうかよろしく頼みますよ・・・」いつものようににこやかに、そして穏やかに話す毛沢東(もう・たくとう)国家主席の声が顧理事長の頭の中でぐるぐる回っていた。
全くの貧乏くじだが、これでうまく行かなければ、自分がこれまで築き上げてきたものも全て失うだろう・・・、それにしても本当にあの指導部の連中は、地震など予測できると思っているのだろうか・・・。
顧理事長は来る日も来る日も、何か良い方法がないかと考えていたが、これと言った方策は何も思いつかないままだった。
話は前年の1966年に戻るが、河北省で大地震が発生、甚大な被害を出した・・・、そのとき毛沢東は周恩来(しゅうおんらい)首相を地震被災地へ見舞いとして送り、国家目標として、将来必ず地震予測ができるようにする・・・と発表したのである。
中国共産党は自分達より上のものは例え神であろうとも認めない・・・と言う姿勢、これによって神を超える中国共産党のイメージを作り出したかったのかも知れない。
もともと中国には地震学の非常に長い歴史があり、統計、民間予測方法や記録が残っていたのだが、長い間の封建制度と半植民地的な近代情勢の中で、地震研究は顧みられることが無くなり、1945年当事、地震研究者はたったの4人、観測所は2箇所しかなかったが、この状況は1960年代でもそう大幅に改善されてはおらず、これを「完全なものにしろ」と言われた顧理事長は苦難の日々を送っていた・・・、しかも今度は国家主席が人民に約束したのだ、外せばどうなるかは目に見えたことだった。
そんなある日、査志元が、遼寧省から面白い男を連れてきたのだった。
「私は遼寧省の海域地震であれば、金さえ出してくれれば10日と違えず地震を予測してみせる」そのよれよれの人民服の男は、そう言うと、自分を国家地震局で働かせてくれと顧理事長に言うのである。
今や金も権力も地震予測の為ならどうにでもなる立場である顧理事長は、どうしたものかな・・・と思ったが、この時この男を強く押すのが同じ遼寧省出身の「朱鳳鳴」(しゅ・ほうめい)であり、朱はこの男は地震予知では有名な男だと、顧理事長に伝えた。
これをを聞いていた査志元は、顧理事長を別室に促した。
「もともと、中国全土の地震を予測するのは困難なことです・・・、これは理事長もご存知のはず・・・、だから当たりやすいところを選んで当てる・・・、これだと外れは少なくなるから主席も約束を守ったことになるのではないでしょうか」
「それは・・・外れないところだけを予測すると言うことかね・・・」顧理事長は少し厳しい顔で査志元を見返す。
「そうです、幸いなことに遼寧省の海域地震については周期予測が立てやすく、しかも1960年ごろから活動が活発になっています。その上にあの男の予測方法を使えば、何とか1度は地震を予測できるかも知れません」
「だが、それだと唯1回だけになるかも知れないが、その後はどうする」
それはその時にならねば分かりませんが、今は1度でも地震を当てないと、私も理事長も炭鉱送りは間違いないでしょう・・・」
顧理事長はこの遼寧省の男を国家地震局の職員に加え、朱鳳鳴を正式に遼寧省地震局研究員に任命し、毛主席から要請があった国家地震局を発足させた。
このやり方はどちらかと言えば汚いやり方ではあるが、日本でも比較的データが揃っていて、傾向がわかっている東海地震域に殆ど全ての高額機材を投入し、これを当てて地震予測ができた・・・と言う実績にしようとしているのに似ているが、こうしたことは外れない地域での予測で、本当は地震予測とは程遠いものであり、顧理事長はこのことで躊躇していた・・・しかし他に方法はなかった。
そしてこの遼寧省出身の男だが、名前が公開されていない、またその素性も明らかではないのだが、昔から中国では民間で動物の変化や気象での変わったこと、井戸水の水位の変化や植物異常で地震を予測する方法があり、彼はこうしたことをもとに地震を予測することができたのではないか・・・と思うが、それが証拠にこれ以後国家地震局は国を挙げての宣伝を行っていく。
大量の人員を動員して、映画、展覧会、宣伝カー、パンフレット、ラジオなどで地震の知識の普及を行っていく傍ら、一般人民に情報の提供を呼びかけるのだが、その情報とは犬が騒ぐ、月の色がおかしいなどの日常生活上の変化の情報だった。
国家地震局がやっていたのは、遼寧省でのこうした異常現象の分布による解析と、高額な観測機器の併用による地震予測だった。
つまり遼寧省の海域震源域近くで全ての機材を投入して科学的観測を強化し、これと同時に民間の異常現象を集めて、それで地震発生の日時まで予測しようと言うものだった。
1回でいい、地震を当てれば国家主席の顔は立つ・・・と言う形式のものだ。
1970年、国家地震局は遼寧省を地震発生重要監視区域に定め、そして1974年ついにそのときはやってきた。
遼寧省海域付近の沿岸で地電流の変化が始まり、ネズミの大量移動が始まったり、冬眠中のヘビが出てきて雪の上で死んだり、井戸水が濁ったり、水位が上昇してきたりの異常が始まってきたのである。
1974年12月20日、国家地震局は近いうちに海域の北側でM4~5の地震が発生すると発表し、12月22日M4・7の地震が発生した。
しかしこの地震のあとも民間の異常現象の報告はますます増加し、動物たちの異常行動は更に激しくなっていく・・・、また細かな微動が続き、土地傾斜計は正常起動を外れて加速度的な屈折を示してきた。
1975年2月4日、午前0時30分、国家地震局は中国共産党指導部に緊急の通報を行い、2月4日か5日の間に地震が発生する・・・と伝えた。
そして2月4日午前8時、ついに住民に対して「避難命令」が出され、人民解放軍が病院や大きな工場などから人々を避難させ始め、午後3時50分、地電流や土地傾斜の急変が始まり、ここに至って国家地震局は3時間以内に大地震が起こることを予測した。
午後6時、緊急避難命令が発令され、最後に残った住民も全て自宅の火の後始末をして避難は完了・・・、そして午後7時36分に海域近くでM7・3の大地震が発生したのである。
背景はどうあれ中国が世界で初めて地震の予測に成功した瞬間だった。
中国政府はこの実績を大々的に海外メディアに発信し、各国で要請があれば国家地震局の職員を派遣してその業績を宣伝した。
しかし、査志元や顧理事長が恐れていた通り、その次に別の場所で大きな地震が発生したときは、これを予測できなかった。
1度は地震を当てているから何とか言い逃れはできたものの、また後が無くなった顧理事長等は頭を抱えていたが、1976年1月、周恩来首相が死去、また同じ年の9月には毛沢東国家主席も死去し、中国は「華国鋒」(かこくほう)の元での体制変革が始まり、地震予測プロジェクトなどは無駄だ・・・と言うことになってしまった。
結局、顧理事長や査志元たちの炭鉱送りは無くなったものの、国家地震局は解散、その後地震予測などは「非科学的だ・・・」と言うことになっていったのである。
不完全で見せかけだけ・・・と言えばそうだが、それでも国家地震局の活動がもし今日まで続いていたら、あるいは先の四川省大地震は予測されて、一人の死者も出さずに済んだかもしれない。
最後に、国に動乱や混乱があるとき、天変地異もまたそうした時にやってくる・・・世界中のあらゆる地域でささやかれる民間伝承である。