「随分死んだな・・・」一人の男が木片を焚火(たきび)の中へ投げ込みながらそういった・・・真っ黒焦げになって積み重なっているところは、まるで海鼠(ナマコ)のような容(かたち)だ。「近所の人もみんな死んでしまった。もう人間の世も今夜で終るのでしょう」そう言って老人は口をつぐんだ。
(杉重太郎・「火焔の中の幻覚」より)
1923年(大正12年)9月1日、午前11時58分44秒・・・、それは初め地面が低く唸るような音から始まった・・・、やがてその大勢の人間が地獄の底でもがくような音はどんどん近付いてくる、そして初めは瓶に入れられ振り回されているような大きな横揺れが、その後相次いで下から突き上げられるような衝撃を感じた頃には帝都東京の半分が瓦解していた。M7・9・・・、関東大震災はこうしてはじまった。
おりから昼飯時期のこと、各々の家では火が使われていたことから、あちこちで火事が発生し、その火が集まって秒速17メートルから30メートル近い火焔風を起こし、何十本とも知れぬ火焔竜巻となって帝都をなめつくした。
人々は火焔地獄の中を彷徨い、わずかな水を求め大富豪安田邸の池の中に身を沈めたが、いかに安田財閥の池とて所詮は池、幾多の老若男女が飛び込んだ池は、襲い来る火焔の熱で一瞬にして沸き立ち、水が見えぬほどに殺到した人達は、絶叫とともに茹でられ、或いは焼かれてしまったのである。
またこれはある兄妹の証言から・・・。
「何しろ親父も、母親も目の前でじわじわ焼け死んで行くんです。気が狂ったようにして死んで行くのを見ながらどうすることもできません。それも一度に焼け死ぬならまだしも、風が吹いてくる度に着物から肌からじわじわ一枚一枚焼かれていくんです。ですから風が引くと生き返ったようになるんですが、その間にそこいらの泥濘(ぬかるみ)から泥を掬ってかけるんですが、また風が襲ってくると火がついて燃えだすんです」
「周りは火の海でどこへも逃げるところはありませんでした。地べたにひれ伏して土に息をかけるようにしていなければ煙で喉が詰まります。死んだ人を上から被って火の風がやってくるのを待つだけでした」
「私は今年16になる妹と2人で両親とは2間ばかり離れた所にいたのですが、両親が焼け死んだのを見ると、妹はもうたまらなくなり、焼け死ぬのはいやだから私に殺してくれ…と言うんです。私もどうせもう駄目だから、一思いに殺してやろうと思いまして、2度まで妹の首を絞めたのですが、手に力が入りませんでした」
「早く、早く殺してよ・・・、と妹はせがみます。がその姿を見ると可憐しくてどうしても力が出ないのです。それで妹の細帯を解かせ、それを妹の首に巻きつけ、今度火の旋風が来たらもう最後だから、その時はきっと締め付けて殺してやる…と言いながら待ったんです・・・、そして有たけの力で目を瞑って絞めることは絞めたのですが、帯がすでに焼けていたと見えて、途中で切れてしまったんです」(婦人公論・大正12年10月号より)
この兄妹はそれからどうなったか・・・そうだ証言してくれているから、家族8人中奇跡的にこの2人は助かった。
だが、隅田川では全身焼けただれて、男とも女とも分らぬ死体が無数に流れ、橋のたもとでは死体の間に頭から焼けただれて片足になっている者、背中を一面焼かれて動けずにいる者など、瀕死の男女が幾人も死を待つようにうなだれ、少しばかりの空地には、僅かばかりに命を拾った人が集まり、焼けたトタンを屋根に名ばかりの小屋を作っていたが、死人の匂いも、半死の重傷者の声も耳に入らぬか、貰った玄米の握り飯をガツガツかじっている・・・、これが地獄でなくて、地獄がどこにあろう。
またこれは東京駅付近、翌日にここを歩いた人の話だが、降車口近くで足元を見ると、糸でからげた紙筒みがあり、何かと思って見てみると、そこからは生後いくらも経たない嬰児の片足が、紙の破れ目から覗いていた。
そしてこうしたことが全く目に入らず、人々はそれを蹴とばして歩いていたのである。(大正大震災大火災・より)
さらにこれは震災後3日目、横浜でのことだが、泥まみれの浴衣を着て憔悴しきった感じではあるが、どこか興奮しているような30前後の女が歩いていた・・・、一見してその有り様から、今度の震災で焼け出されたどこかのおかみさんであることは明白だったが、やがて山の手の避難所にきたその女は、そこの人混みにまじってウロウロしている2人の子供を見つけると、「あ、いた、いた」と叫びながら嬉しそうに走り出した。
その様子を見て誰もが、ああそうか、生き別れになっていた子供を見つけたのだな・・・と思ったのだが、次の瞬間その女は傍に落ちているレンガを拾うと、その子供たちの頭を滅多打ちにして殴りつけた・・・、女は気がくるってしまっていたのである。(婦人公論・大正12年10月号)
この震災と大火で正気を失った者の数はわかっていないが、こうして気が狂った者や、嬰児がいた女性などでは、ショックから乳が出なくなった者が多数あり、それが原因で子供を失った女性も多かった・・、彼女たちが髪を振り乱して苦悩する姿が見えるようだ・・・。
火災は9月3日にほぼ鎮火したが、両国橋はまだこのとき燃えていたと言われる。
本震以来続く余震は114回にもおよび、人々はその揺れの恐怖から、避難しようと東京駅に殺到していた。
この地震と火災による被害は焼失家屋46万5000戸、死者9万1300人(この内4割の38000人が被服廠跡地などでの焼死だった)、被災者は140万人、帝都東京の半分が焼失したことになる。
そして震災から3日後の記述にはこうある。
「しかし、失うべきものは全て失い、生きていることすら不思議と言える今、彼らは新たなる生への力をよみがえらせつつあった」
「3日午後の豪雨に、野宿していた避難民はぬれ鼠となったが、やがて日比谷、上野などにはバラックが建ち、その周囲にはスイトン屋、あずき屋、牛丼屋、床屋などが軒を並べ始めた。行方不明の家族の名を書いた旗を担いで、焼け跡を彷徨う人、その傍では鉄道隊、電信隊、工兵隊などの軍隊が焼け跡の修復に着手しはじめていた」