「アマデウスのレクイエム」後編

モーツァルトは1791年12月5日、35歳でこの世を去ることになるのだが、どうも彼の死には謎が付きまとう。
モーツァルトはまだ薬を飲みながらでも元気だった1791年6月、コンスタンツェに誰かから毒を盛られた・・・と話していて、この疑いは、かねてからモーツァルトの才能を疎んでいたアントニオ・サリエリに向けられ、サリエリは晩年までこのうわさに苦しむのだが、それを言えばコンスタンツェも、弟子のジュースマイヤーも怪しいことには違いないのではなかったか・・・。

さらにおかしいのはこのモーツァルトが死ぬ2日前に現れた男であり、コンスタンツェはモーツァルトが最後に手がけていたレクイエムが、誰かの依頼だったとは聞いていなかったし、モーツァルトがそれを完成していないことも、くだんの男は知っていた様子だった・・・、それにも関わらず「代金です」は余りにも不自然だった。

またモーツァルトはその死に際して聖職者たちが来ることを堅く拒み、したがって彼が死んだことを確認した者は医師しかおらず、その葬儀は12月7日に行われたが、サンクト・マルクス墓地に埋葬されたものの、遺言により誰も棺に同行することを許さなかったため、どこに埋葬されたかはこの時点から分からなくなってしまっていて、これが100年後、記念碑として移動したときには、それまでそうではないか・・・といわれていた場所から、さらに埋葬位置は不明状態になる。

そしてこれは非公式の記録だが、この時代こうした作曲家が死亡すると、その直後に石膏でデスマスクを作るのが一般的だったが、モーツァルトは妻のコンスタンツェにその「デスマスクは壊せ」と死の4日前に告げていて、そのときの様子から、どうもモーツァルトは自分が死ぬ日を知っていたふしが伺える。
このことは何を意味しているかと言えば、つまり死んだことはコンスタンツェが確認したが、しかしその後モーツァルトの死体がどこに行ったのかは、まったく誰も知らない、彼の容姿はその後誰も分からなくなった・・・と言うことだ。

1791年12月7日を以って、モーツァルトは人々の記憶としては残っていても、その人物に関してはまったく何も残らない状態になった・・・、これは一体どう言うことだろうか。
モーツァルトは生前フリーメイスンの会員だったと言う噂があるが、同時に薔薇十字結社に所属していたとも言われ、これらの秘密結社のうちフリーメイスンは現在も正規の結社として存在していて、世界平和実現などの活動を行っているが、その内容はよくは分かっていない。

一部地域、ある時代には、非常に強い選民意識を持った優秀な人材による世界支配を目標にしていたこともある・・・といわれている結社だが、こうした意味では薔薇十字結社は、それよりさらに正体の無い秘密結社であり、その存在ですら噂でしかないようなものだ。
だが、死に際してのモーツァルトのありようを考えるとき、彼が毒を盛られたと妻に手紙をしたためた中には、「敵」と言う文字が存在していて、これが仕事上のほかの作曲家を指しているのか、またそれは別の存在を指しているのかは分からない。

そしてコンスタンツェに頼んで壊させたとするデスマスクだが、これも一部ではコンスタンツェが誤って落とした・・・とも言われているが、これがモーツァルトの遺言だったのか、コンスタンツェのうっかりミスだったのか、それともモーツァルトの弟子が愛人となっていたコンスタンツェの心のやましさから、そうなったのかは我々の預かり知らぬことだが、それにしてもモーツァルトの意思と、他の者の偶然が見事に合致して、モーツァルトの肉体としての存在を見事に消し去ってしまっていることに変わりは無い。

モーツァルトには天才としての「悲しさ」があり、それは天才でなければ理解できないものだったに違いない。
そしてモーツァルトを見ていると、始めから自分の一生を知っていたような、何か与えられたことを淡々とこなしているような部分がある。
こうした一生を考えると、非常に過酷で虚しいものが、どうしても拭い去ることができない、モーツァルトの傲慢さは、そのどうにもならない「神の意思」に対する精一杯の反抗だったようにも思えてしまうのは、考え過ぎだっただろうか・・・。

たまには「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」第1楽章でも聴いてみようか・・・。