「宗教と人権」

1979年2月1日、フランスに亡命していたルーホッラー・ホメイニがイランに帰国、この瞬間イランは事実上「革命」が成立した。

パーレビ国王が後任としてバフティヤールを首相に任命し、自身は国外へ退去したが、そのバフティヤールも2月11日にはホメイニに政権を移譲し、ここにホメイニは革命指導者としてイスラムの教えに基づく国家建設を始めるのだが、そもそもパーレビ国王、パーレビ王朝はアメリカを始めとする、西欧文化的国家の建設こそが近代化と言う考えのもと、イスラム文化を厳しく弾圧する政策を行ったが、秘密警察を設けて監視するなど、その手法は決して近代民主主義の理念とは言えないものだった。

また不正や賄賂が横行、貧富の差は拡大し、こうした現状に不満を持つイラン国民は、暴動を期に一挙にパーレビ王朝打倒へと傾き、こうした動きをパーレビは抑えれなくなったが、当時アメリカを始め西欧諸国は冷戦構造に見られる、ソビエト連邦(現ロシア)対アメリカと言う国際的緊張状態の中、ソビエトの南端を接するイランを軍事的重要拠点として位置づけ、パーレビ王朝を支援し続けていた。

そして当時の世界情勢は西欧文化至上主義とも言うべきもので、アメリカやヨーロッパの文化こそがもっとも近代的で、理想的なものと言う考え方であったが、こうした傾向に正面からNOを突きつけたのが、このイラン革命であった。
ホメイニは革命成立後、西欧至上主義を廃し、イスラム至上主義を掲げ、西欧文化はことごとく否定していったが、こうした背景からイランとアメリカはそれまでの協力関係から、対立関係へとその関係が変化していき、特にイギリスなどは、革命前のパーレビ政権時に契約していた軍事兵器の納入が、ホメイニ政権によって拒否されたこともあり、経済的打撃も大きかったのである。

そして国際社会はこうしたイラン革命に対し、理想的な西欧文化を否定し、宗教政策などを布いて、必ずホメイニは失敗する・・・と思っていたが、実際にはそのまったく逆の方向へとイランは動いていくのである。

それまで利権で拡大していた貧富の差は、宗教的公平性から平等なものになり、また西欧が何より関心を持っていた女性のファッションだが、ホメイニは「ヒジャブ」と言う、現在もイスラム国家の女性が着用しているあの衣装の着用を義務付け、違反する者は厳しく罰していったが、本来伝統的なこうした衣装を否定され、無理やり露出度の高いファッションを強要されていたパーレビ政権下の女性たちは、伝統の復活を、あながち否定するばかりではなかったのである。

またホメイニはイスラム教支配体制に女性の組織もつくり、こうした女性たちの活躍によって、イランの女子児童たちの就学率も向上していくのだが、パーレビ政権時70%だった女子児童の小学校就学率は、ホメイニ政権では97%になり、高校の就学割合も女子生徒と男子生徒の割合は、ほぼ均等になっていった。
こうした傾向の背景には、革命前は男女共学だった学校に対する親の警戒心があったためであり、イスラムでは厳しく男女が区別されていなければ、それはやはり不謹慎であるとの考えが根強かったことが伺われ、ホメイニ政権に変わって学校も男女に分けられたことから、親の安心感もあってこうした傾向が出てきたと考えられている。

また実は大学の進学率を言えば、イランでは女性の方が多く、現在では例えば医学関係の大学生の70%が女性と言う、先進国も真っ青な女性進出を実現しているのであり、こうしたことから、こと医療現場での女性の進出率は西欧文化圏の比ではない。
更に男女が分けられる社会と言うのは、男性社会と同じだけの女性社会があると言うことで、雇用に関してもまことに男女が均等な社会を形成していて、日本的イメージではイスラム社会の女性の概念は貧しくて、理不尽・・・などと思うかもしれないが、とんでもない話である。

痴漢被害防止のため電車ですら男女が区別され、雇用も女性が不利な日本社会などイラン社会すれば20年は遅れている・・・と言われても仕方ない状態である。

そしてこうしたイランの実情と対比を示すのが、西欧のありようであり、その1つがフランスのシラク政権が推し進めた「宗教シンボル着用禁止法」であり、これは簡単に言えばイスラム圏の女性が被っているあのスカーフだが、この着用も禁じる法案で、2004年9月から施行されたが、政教分離の原則に従い、公立学校の校内や公式行事で、宗教上の帰属を明快に示す標章や服装を禁じるとしたものだが、これによってフランス国内のイスラム教女学生のスカーフ着用を巡って10年越しの紛争が再燃、イスラム教に対する迫害だとして猛烈な反発が起こる。

ラファラン首相はこうした反発に対して公教育の場での非宗教原則を主張し、宗教差別ではないとしたが、この法律は海外へも波紋を広め、世界中のイスラム国家の反発を招いた。
国際テロ組織アルカイダの指導者の1人、アイマン・ザワヒリは同法を「イスラム世界を攻撃する十字軍の行動」と非難し、イラクでは2004年8月28日に、フランス人記者2名が武装集団に拉致されたときも、この武装集団の要求は48時間以内に同法を撤廃せよ・・・となっていた。

当初イラク戦争に反対的だったフランス、そうした意味ではイスラム諸国も好意的な見方をしていたにも拘らず、このシラクのスカーフ禁止法で、一挙に中東のイスラム諸国共通の敵・・・、と言う皮肉な結果となったのである。
こうした背景の中、2004年10月にはフランス東部のミュールーズの公立中学校で、スカーフを着用し続けていた2人の女学生が退学処分をを受けたのを皮切りに、各地で40人を超える女子生徒が退学処分となった。

また2009年、アメリカでは人前で肌を露出することができないイスラム教の女性も水泳ができるようにと、全身を覆う水着を開発した女性が、それを着用してプールに入ろうとしたとき、プールの管理者たちは「衛生上に問題がある」として、この女性のプール入水を拒否した。

およそ弾圧と言うもの、国民を抑制する傾向は教育現場がその先端になる。
片方で自由平等を掲げる西欧のこうした在り様を考えるとき、宗教的統制と見られたイラン革命がもたらしたものは、宗教を通しての福祉の充実であり、平等と世界最高水準の男女雇用機会の均等性であり、こうした現実を見る限り宗教的統制が人権を蹂躙する、または女性の地位をないがしろにする・・・と言ったことは、少なくともイラン革命に措いては、当てはまらなかったと言えるのではないだろうか・・・。