戦争が始まった直後、比較的安定していた経済はしかし、昭和13年頃(1938年)からはまことに厳しいものになって行った。
全てが軍需物資に取られ、民需物資は厳しく抑制されたが、その一例が綿製品で、綿の代わりに支給された代用綿の「スフ」は、その支給量の少なさもさることながら、品質は粗悪を代弁するかの如くで、当時「スフ」と言う言葉はまがいもの、または不良品の代名詞となっていた。
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また砂糖、マッチ、タバコは昭和14年(1939年)秋からは一般国民の手に入りにくくなり、更に昭和15年には米などの食料不足が深刻化し、同年秋の日本本土産米は対前年比121万トン減となり、占領地である朝鮮や台湾米も、現地の軍需消費の伸びから、日本本土へ回せるものは無かった。
政府はこの対応として昭和14年産米から強制的に政府が買い取る仕組み、いわゆる供出制度を開始し、農家に米を残させない方針を打ち出し、精米すると1割から2割、量が目減りすることまで考え白米の消費を禁止、玄米消費を推進させ、麦類や芋などの消費を奨励したが、こうした政策は食糧不足の解決には何の役にも立たなかった。
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ますます生活物資が乏しくなる上に、スーパーインフレで物価は高騰し続け、ついに政府は苦肉の策として昭和14年9月18日、一般物価、地代、家賃、それに賃金までも固定する価格停止令を出すが、この頃既にこうした政府の無茶苦茶な市場から、物資の市場は全てヤミ市場に移行していたため、この政府の法令はただ賃金だけをストップさせることにしかならなかった。
しかも物資そのものが不足していたことから、たとえヤミ市場でも特別なルートを持つものでなければ、物資の入手は困難だった。
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こうして日本経済が困窮の極みになっていったことから、軍人も資本家も政治家も皆、この期に及んでもこうした国の困窮を招いた責任が、自身たちの戦争政策にあったことを省みることもなく、では別のところで資源を確保してこれを解決しようと考えたのであり、これが戦争の拡大を招いたいわば「南進論」が台頭してくる理由である。
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だがこの南進政策、つまり東南アジアやインドまでも日本の手中に治め、そこから物資を調達しようとする政策によって、ついに日本はアメリカの逆鱗に触れ、それまではアメリカからの輸出は、日本が希望するだけ行われていたものを、アメリカをして、対日本輸出の許可制導入に踏み切らせてしまう。
ここでアメリカからの物資が入りにくくなることを恐れた日本軍は、陸海軍揃ってますます南進政策を急ぐことになり、ついにアメリカとの対立は決定的となって、太平洋戦争へと突入していくのである。
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日本の国民生活は、こうしたことから太平洋戦争開戦前には既に崖っぷちになっていたが、これが開戦とともに更にその困窮の度合いを深め、太平洋戦争開戦前の昭和16年(1941年)4月には食料が配給制となり、米は大人1人1日分2合3勺(およそ330グラム)を基準とし、年齢が高くなるほどこの量は減らされたが、その翌年の昭和17年(開戦後)には、この米2合3勺は米ではなく、麦やイモを加えてカロリー計算で同等のものと言う配給に変わって行った。
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そして魚や野菜もこうした意味では勿論配給制で、数人の家族にイワシが1本、それも1ヶ月に1度あるかないか・・・、と言う有様だった。
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金属は軍需資材として、蚊をよける蚊帳のつり金具や橋の欄干まで取り上げられ、賃金は低く停滞したまま、税金は重く、物価は高い状況になり、国民の暮らしはまことに悲惨なものとなって行った。
商人、自営業者、職人、官公吏、会社員などはすべて転業もしくは廃業させられ、軍需工場で徴用され、これでも足りなくなると、昭和19年には中等以上の男女生徒を「学徒動員」して、みな軍需工場や土木工事で働かせ、働いていない未婚の女子などは全員「女子挺身隊」にとられていった。
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また台湾、朝鮮、中国の人民も強制的に日本に連行され、土木工事や鉱山などで奴隷のように働かされたが、こうして集団的に連行された朝鮮人だけでも約70万人、現在の在日朝鮮人の祖父や父は、このとき強制的につれてこられた人たちだった。
更に学校教育は「学徒動員」で停止し、文科系大学生の兵役徴集延期措置も昭和18年9月で失効、延期措置適用を受けていた大学生はみな「繰上げ卒業」をして兵役に取られ、戦場へと散って行った。
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政府はこの大学生達の出兵に対して「学徒出陣」と称して華々しく宣伝したが、この時代、まだ大学生も戦争の意味に疑いを持つものは殆どいなかった。
皆が「皇国の使命」と信じ、天皇の為に死ぬことは一切の正義に生きることと信じ、日本の勝利を確信しながら戦地に赴いて行ったのである。
そしてこうした学徒出陣に際して、多くの学生達が当時人気だった「宮元武蔵」の著者、吉川栄治の著書を持参して行ったことから、吉川栄治はそのありように大粒の泪をこぼし、また終戦後はそのショックから執筆が出来なくなってしまったのである。
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更にこれは映画「戦艦大和」でも出てくるが、特攻隊に志願した多くの若者達は、明日は出撃と言うその前日には、上官にこれまで世話になったことを感謝して礼を言いに行き、搭乗する攻撃機を整備をしてくれた整備主任には、せっかく整備してくれた攻撃機を自身たちが破壊してしまうことを詫びてから、片道切符の戦闘機とともに青空に消えていった。
「貴様ら・・・、ばかもんが、そんなことでわざわざここへ来たのか」と言いながら、上官や主任達は顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。
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それにこうした例は多かったのかはどうかは分からないが、婚約が決まっている者、またはそれぞれの思いがあった若い男女は、召集令状が届くと、取りあえず形だけでもと結婚式を挙げた者もいたが、中には自身の行く末を覚悟し、新妻に手を触れることをためらったまま、出征に及んだ者もいた。
別れ行くときに女を抱くのも愛なら、それを抱かずに出征するのも愛だった。
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彼らは南の青い空に何を思ったことだろう、殺すのも地獄なら殺されるのも地獄、国家のため、そして家族のため、愛する者たちのため、自身の命を以ってそれが得られるなら、もしかしたら私も彼らと同じことを思うかも知れない。
だが、こうして現代を生きる私と、彼らの求めたものはおそらく全く別のものに違いない。
今、こうして青い空を、天を仰ぐに、この日本の姿が彼らをして命がけで守らせるに足るものだったのか、それを私は自身に問いかけている。