1978年、日本を訪問した鄧小平は昭和天皇に謁見する。
そしてその際昭和天皇は鄧小平に対して「あなたの国に迷惑をかけてしまいました。申し訳なかった」と謝罪の言葉をかけたが、この言葉を聞いた鄧小平は姿勢を正し、直立不動となって暫く立ちつくした。
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思えば1922年初めて共産党に入党した鄧小平にとって、それからの戦いは資本主義との闘いであり、またその共産党の中ではさらに共産主義に対して、経済を重視する反共産主義的な存在として戦い続けなければならなかったが、その意味で日中戦争、太平洋戦争が持つ意味はまことに感慨深いものがあったに違いない。
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中国大使館へ戻った彼はいささか興奮気味だったようで、側近に「今日はとんでもない経験をした」と語っていた。
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鄧小平はもともと裕福な家の出自だったが、彼のその後を決定付けたのは、やはり第一次世界大戦中のフランス留学ではないだろうか。
彼はここで資本主義と言うものを見ていることから、後の彼が中国共産党の中でも「反共」として、何度も失脚の憂き目に遭う原点はここにあったように思われる。
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鄧小平が中華人民共和国の立国者である毛沢東と出合ったのは、1931年のことだが、無能な上官のおかげで敗走していた鄧小平は、毛沢東と合流し、ここで毛沢東に認められるが、当時中国共産党の若手はソビエトから共産主義を学ぶ、いわゆるソビエト留学組が支配的だったため、田舎くさいゲリラ活動に終始する毛沢東は指導者だから仕方ないものの、それに忠実に従う鄧小平は、こうしたソビエト留学組によって追い落としを謀られてしまう。
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最もこの対立は鄧小平自身もフランスから追われてソビエトに入っているから、鄧小平もソビエト組だったと言えばそうだが、どちらかと言えばセンスの良い都会組と、田舎くさい考えの対立だったかも知れない。
こうして野に下った鄧小平、しかし共産党ナンバー2の周恩来(しゅうおんらい)が彼を救い、この間国民党との戦いで戦果を収めた鄧小平は、次第に毛沢東の側近としてその地位を固めていくが、どうもイデオロギー重視の毛沢東とはその後距離が出てきてしまう。
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毛沢東が主席を退き、劉少奇(りゅうしょうき)国家主席体制になると、鄧小平は毛沢東がイデオロギーで混乱させた社会の復興を劉少奇とともに目指すが、そこで鄧小平が用いた方策は、一定の規模の民主化であり、これはそれなりに成果を上げていたが、ここでストップをかけるのが引退していた毛沢東だった。
「鄧小平等の政策は革命の否定だ」、この言葉はその後文化大革命により、劉少奇、鄧小平は革命の敵だと言うところまで発展していくが、こうしたいきさつから劉少奇は非業の最期を迎える。
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しかし鄧小平については全ての職籍は剥奪され、追放されたにも拘らず、何故か毛沢東が「あれはまだ使える」として命までは求めなかったのである。
私は毛沢東のような叙情的な政治家は好きではないが、この辺が毛沢東の凄いところだと思う。
なぜなら鄧小平がもしここで死んでいれば、おそらく今の中国は一つの国家としては存在していなかったように思うし、またここまで経済的発展を遂げることも出来なかったと思うからだ。
もしかしたら身長150センチの小さな体から、どこかで世界最大の国を治めるに足る、何かが見え隠れしていたのだろうか。
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鄧小平は1968年から5年間、追放の上、倒れても砂糖水しかもらえない状況で、強制労働をさせられるが、1973年、ここでまたしても周恩来に救われ、彼が病気でなかなか動けなかったことから、鄧小平がそれを補佐していく形が出来上がったが、こうしてまた地位が上がっていく鄧小平は、この時期にニューヨークを訪れる機会があり、その際ニューヨークの発展ぶりを目の当たりにし、「これからは製鉄工業に力を入れなければだめだ」と痛感したと言われている。
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そして鄧小平の前途は洋々たるもののように見えた、がしかしここで最大の擁護者だった周恩来が1976年1月8日死去、もともと周恩来を邪魔に思っていた江青ら4人組は、天安門で周恩来の追悼デモを仕切っていた鄧小平らを、反革命動乱の首謀者として逮捕、またもや鄧小平は追放の憂き目に遭うが、この事件を天安門事件と言い、後に開放を求めて学生達が起こした天安門事件と区別するために、この事件は「第一天安門事件」と称されるようになった。
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しかし同じ1976年9月、今度は毛沢東と言う赤い巨星が没してしまう。
ここからほころび始めた江青ら4人組のもくろみは、翌年1977年に復帰した鄧小平らによって、銃口の露となって散っていった。
ちなみに私はこのときまだほんのガキだったが、軍事法廷で拳を振り上げ、「あれは革命ではない」と叫ぶ江青のその拳の先に、初めて政治とか革命とかと言うものを感じたものである。
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「黄色い猫と黒い猫・2」に続く。