鄧小平が進めた改革は、それまでの国際的な対立から融和に方針が転換され、国際平和、国際協調が世界に向けて発信されていたことから、天安門で自由を求める学生達を弾圧することに躊躇した江沢民体制は、学生達に人気が有った趙紫陽をこの説得に向かわせるが、ここで泪を流し学生達を説得する趙紫陽をテレビで見ていた鄧小平は、「あの馬鹿が、中国を崩壊させるつもりか」とつぶやくと、すぐさま軍関係者に指令を出し、これを徹底的に鎮圧しろと命じ、その際死者が出ても構わないと告げる。
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そして江沢民たちのもとを訪れると、「何をやっている」と激怒し、苦しい乱世の経験のない江沢民たちに、政治とはどう言うものかを眼前に示して見せるのである。
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この鄧小平の態度は国際的には非難を浴びる。
しかしもともと混乱する国家をまとめる時には独裁政治が最も効果があり、それから緩やかに民主化へと向かうのが、一番理想的な混乱社会の収拾方法である。
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具合が悪ければあとで何とかすれば良い、今必要なことを今やらねば中国は4つか7つに割れていく。
10億か、それとも1万人か、もし1万人が死んでも10億が助かればそれが政治だ・・・、流石に2つの世界大戦を潜り抜け、資本主義とも共産主義とも闘い続けて来た人物だと思う。
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この鄧小平の厳しさのおかげで中国は分裂せずに、ソビエトの二の舞にならずに済んだのであり、その後改革が順調に進んだ中国はいまや世界第2位の経済大国であり、その礎を築いたのは間違いなく鄧小平、その人である。
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鄧小平は1997年2月19日この世を去った。
享年92歳、何度も失脚し、命の危険にまで晒され、それでもその絶望の中から這い上がってきた彼は、決して中国の国家主席になろうとはしなかった。
また死後は使えるものがあったら全て使って、残りは献体にでも使えと言って死んで行ったが、流石に恐れ多く、角膜は使ったものの、体は荼毘に付され、その遺骨は中国の領海にまかれた。
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またこれも本人の遺言らしいが、自分が死んだからと言って特に何もするな、平常どおりの1日にしてくれとの事だったので、毛沢東が死んだときのような派手な式典も何も無く、鄧小平が死んだその次の日も、そのまた次の日も、中国は昨日と同じように1日が始まっていたのである。
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現在の胡錦濤(こきんとう)国家主席は戦争を経験していない国家主席である。
だが彼の行動を見てみると良い、日本へ来れば卓球の福原愛選手と卓球をして楽しみ、そして自国へ帰ればウィグル地区での徹底した弾圧だ、この男を甘く見たら大きな怪我をするだろう。
そして中国と言う超大国に立つ者とはこうしたものであり、良い人が国のトップに立ったとき中国は、7つ以上に分裂するに違いない。
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またこれは余談になるが、新聞各紙が余り大きく取り上げないので、ここで取り上げようと思うが、実は今、アフリカ諸国などの大使館が日本から撤退し、随時中国に大使館を開き、結果として中国大使館で日本外交の実務を兼務してる国が増えてきていて、こうしたケースの反対、つまり日本の大使館で中国外交の実務を兼務しているケースは全くない状態が起こっている。
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少なくとも10カ国が日本に大使館を置かず、中国大使館で対日本外交を兼務していることが分かっているが、そのうち8カ国はアフリカであり、コンゴ共和国、ギニア、トーゴ、ギニアビサウ、シエラレネオ、ニジェール、ブルジン、セーシェルが1990年から2000年にかけて、逐次日本大使館を閉鎖し、中国大使館で対日本外交を兼務している。
またキプロスとマルタは地中海の国だが、いずれも日本に大使館を置かず、これも中国大使館で日本外交をカバーしている。
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日本と中国の国際的な影響力の差が少しずつ目に見える形となってきているが、資源確保を目的に世界進出が目覚しい中国、アフリカでも今や日本の影響力は低下し、反対に中国の影響力が高まりつつあり、これは中東でも同じことが言えることを、日本は自覚しておくことが必要だろう・・・。
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※ 本文は2010年3月26日、YAHOOブログに掲載した記事を再掲載しています。