ところが、ここで信じられないことが起こる。
痩せて歩くこともやっとの男が1人、並ばされている列から前に進み出ると、こう言うのである。
「妻子のいるその人の代わりに、私が死にたいです」
この言葉に一瞬にして整列させられている人の列からざわめきが起こった。
「コルベ神父だ」「神父さまだ」、皆そう言って囁きあった。
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「貴様は誰だ」流石にいつもは冷酷な収容所長がここで言葉を発するが、たいてい看守任せで言葉など口にすることは殆どない所長は、こうしたことから少し動揺していたのかも知れない・・・。
「私はカトリック司祭です」コルベ神父は静かに答えた。
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暫く沈黙が続く、何せ普段から反抗的な態度の囚人には、その場でこめかみに銃口を向け、引き金を引く人である。
何が起こっても不思議はなかったが、何故かこの時、所長は黙ってこの貧相なカトリック司祭を見ているだけだった。
どれくらい時間が経っただろう、多分ものすごく短い時間には違いないが、それが永遠のように感じられる時間が過ぎたかと思えたそのとき、「よし、お前が行くがいい」所長はそう言うと、その場を立ち去っていったのである。
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こうしてコルベ神父たち10人は、地獄の餓死室へと連行されて行ったが、餓死室での人のありようは、大体皆同じような行動になると言われていて、数日間は絶望のあまり狂ったように叫んだり怒号を発したりで地獄絵図のようになるが、その声が日を追うごとに小さくなって、1人、また1人と餓死していくものだと言われている。
だが、この時餓死室に送られた10人の場合は、こうしたこととは全く異なったことになったようで、怒号や叫びの代わりに祈りの声と賛美歌が聞こえていた。
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そしてそうした祈りの声や賛美歌もやがて小さくなり、その内聞こえなくなって行ったが、その中で1人、また1人と死んで行った。
当時死体運搬作業の役目をしていたボルゴヴィオクと言う人物の証言によると、毎朝死体を片付けるため餓死室に入ると、コルベ神父は餓死室の真ん中にひざまずき、また立ったまま熱心に祈っていたと言う。
やがて10人が餓死室に入って14日目、この時中の様子を見に入った看守達が確認したときは、4人しか生存者がいなかったが、その内意識があったのはコルベ神父ただ1人だけだった。
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しかしそのコルベ神父も、もはやひざまずく力もなく、餓死室の隅で土下座した格好から起き上がれない状態で、それでも祈っていたと言われている。
通常餓死室では15日をめどに、もし生きている者がいればフェノール液を注射して全員絶命させることになっていたが、コルベ神父は看守達が持っている注射器を見ると、ただ黙って頷いた・・・。
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1941年8月14日、マキシミリアン・コルベ神父はこうして、自身が祈り続けた聖母マリアの腕の中に帰って行ったのである。
この時神父が死んだことを聞いた収容所の人たちは、皆がおくめんもなく激しく泣き崩れ、その死を嘆いたと言われている。
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1971年10月17日、こうしたマキシミリアン・コルベ神父の信仰の深さを称えたヴァチカンは彼を「列福」し、1982年10月10日にはパウロ2世によって、彼は聖ピエトロ大聖堂に措いて列聖された、つまり聖人とされたのである。
ちなみにこの1982年10月10日の式典にはガイオニチェクと言う人物がヴァチカンの式典に参加しているが、彼は一体誰だと思うだろうか・・・、そうあのアウシュヴィッツ収容所でコルベ神父に助けられた彼だった。
彼もまたあれから厳しい収容所暮らしに耐え、戦争を生き抜いていたのだった。
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私は神を信じることはできないかも知れない、でもこのマキシミリアン・コルベと言う人物は信じることができる。