「民の父母となりて・・・」

「殿、おかげで楽しゅうございました、謹んでお礼言上奉ります」
「善政、聞こえるか、私こそお前がおらなんだら、この上杉を潰すところだった、礼を言うのはこの私だ、有り難く思うておるぞ」
「勿体無いお言葉、善政はその殿のお言葉にて今生の全てが報われました」
「もはやこの世に何も思い残すことはございません。殿、くれぐれもいつまでもお健やかにて・・・」
「善政、善政・・・」
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脇に控える者には衰弱した莅戸善政(のぞきど・よしまさ)が、かろうじて差し出した手を、上杉治憲(うえすぎ・はるのり)が握っているだけに見えただろうこの光景はしかし、二人の間ではおそらく言葉ではないものによって、こう語られていたに相違ない。
享和3年12月25日(1804年2月6日)、こうして後世「寛三の改革」の一角と謳われた莅戸善政は藩主上杉治憲、つまり上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)に看取られながら、世を去った。
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出羽(山形県)米沢藩は関東管領家(かんとうかんれい)である上杉謙信、上杉景勝をその祖に持つ名家だったが、関が原の合戦の結果、その禄高は120万石から30万石に減俸され、更に上杉綱勝(うえすぎ・つなかつ)の代では嫡子がなかったことから、禄高は30万石の更に半分の15万石にまで減らされていた。
そして綱勝の後代は吉良義央(きら・よしなか)の子の綱憲(つなのり)がその家督を継ぐが、綱憲は家の格式にこだわり、儀式礼典にやかましく、その上生活も優雅なものだった結果、上杉家の財政は完全に破綻状態になってしまった。
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もともと大大名の家柄、たとえ家禄は減らされても、では家臣を簡単に放逐できるかと言えば、そうは行かない。
上杉家の家臣は大小合わせて5000家にも及び、それら家臣達の俸禄、つまり給料だけでも12万石に及んでいた。
これはつまり15万円しか貰えない給料で、12万円を使用人の給料に支払っているのと同じことで、これでは藩の事業はおろか、藩主家族の生活費ですら、借金によってまかなわれる形態にしかならなかった事だろう。
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加えて宝暦5年(1755年)には奥羽地方に飢饉が発生し、その上に参勤交代や幕府の賦役は増えるばかり、明和元年にはついに治憲の義父である藩主上杉重定(うえすぎ・しげさだ)が藩地返上、つまり何もかも幕府に返して、自分は現在で言う「破産」にしようと考えるほど、上杉家の財政は絶望的なところまで追い込まれていたのである。
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そこへ日向(宮崎県)高鍋の秋月家(あきづきけ)から養子に入り、明和4年(1767年)17歳で上杉家の家督を継いだのが治憲、上杉鷹山だった。
治憲は家督を継ぐと、すぐに大倹約令を出し、自身も食事は一汁一菜、即ちご飯と味噌汁、それにおかずは一品だけと言う質素なものに改め、普段着は絹を使わず木綿と決め、祭事や祝い事、それに音信を伝える贈答なども殆どやめてしまい、50人いた奥女中も9人に減らしてしまう。
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またそれまでは藩主の日常の経費は年間1500両を要したにも拘らず、これを年間200両に減らし、寛政元年(1789年)には商売取引規制を定め、髪結い、香具師などを禁じ、菓子、瀬戸物、小間物、塗り物などの贅沢品の販売を禁止する一方、人口の増加をはかる為、当時半ば流行ともなっていた「間引き」(生まれた直後の子供を殺してしまうこと)や堕胎を禁じ、子供の多い者には扶持、つまり今で言うなら「年間継続的な子供手当て」を出し、その上に農民の結婚を強制的にする。
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男は17歳から20歳までに、女は14歳から17歳までに結婚させるようにして、金がなくて結婚できない者には衣服や金を都合する制度を作り、また飢饉に備えて倉庫を建て、これに食料の備蓄をはかり、藩士でも農業を目指すものがあれば、家や食料を給与として与え、これを奨励した。
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更に、奈良の晒布(さらしぬの)や越後(新潟県)小千谷(おじや)の「縮み」などは、その原料として米沢領の「あおそ」を多用していたことから、安永5年には米沢の横沢中兵衛(よこざわ・ちゅうべい)を小千谷へ送り、そこから織物職人を雇ってこさせ、そして藩士たちの婦女子に習わせたが、これが「米沢織」の起源である。
その他、仙台から藍作師(あいつくりし)、相馬から陶器師、奈良から製墨師(墨を作る職人)などが、治憲らによってこの時期招かれ、産業の発展がはかられたのである。
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そしてこうした治憲を支えたのが、家老竹俣当綱(たけまた・まさつな)と莅戸善政だったが、当初治憲らの改革は、勿論それに反対する守旧派の台頭によって困難な場面にも直面する。
安永2年(1773年)には国家老、千坂高敦(ちざか・たかあつ)ら7名が家老の竹俣当綱と莅戸善政の排斥を治憲に迫り、ついにこうした抗議から出仕して来なくなるが、当時23歳の治憲は、こうした事態に慎重に両者を詮議し、また善政らに対抗する7名の者達にも協力を求めるが、千坂側に非があり、また妥協もしないと判明すると、一挙に7名の老家臣を処分してしまう。
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こうした電光石火とも言える治憲の有り様、しかしこのような果敢な態度があればこそ、その後治憲らの改革はスムーズな進展となっていくのであり、治憲は尾張の「細井平州」(ほそい・へいしゅう)をその師と拝したが、その細井が尾張藩主と謁見したとき、米沢では「間引き」がなくなったと語り、これを聞いた尾張藩主は「それ一つにても大手柄なり」と語ったことが知られている。
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治憲の改革は次第に効果を上げ、金や穀物の備蓄も増加して行き、膨大だった米沢藩の借金も、ついには返済ができるようになって行った。
そしてそうした治憲の傍らには、いつも治憲より16歳年上の莅戸善政の姿があり、善政の名は遠く徳川将軍にまで聞こえるほどだった。
江戸へ義父の見舞いに訪れていた治憲は、将軍家斉に謁見したおり、家斉から善政を褒められ、羽織3枚を送られている。
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治憲、上杉鷹山が亡くなったのは文政5年3月11日(1822年4月2日)のことだった。
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それから43年後の慶応元年(1865年)米沢の春日神社が火事に遭い、そこから偶然にも木箱に納められた一枚の手紙、いや誓書と言うべきか、そんな書面が見つかり、そこにはこう書かれてあった。
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「文武の道に心がけること、言行不一致や賞罰不正などが無いようにすること、民の父母であると言うことを第一に考えること、そしてもし、これらを怠慢にすれば、たちまち神罰を受けて、家運が尽きても怨まない・・・」
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上杉治憲が家督を相続したとき、ひそかに春日神社へ自身の誓いとして奉納した誓書だった。
殊勝で潔いもの言いである。
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どこかの誰かに一番聞かせてやりたい言葉だ・・・。