日本国憲法は国家公務員の規定について、「全ての公務員は全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と定めている。
つまりは戦前の様に天皇の官吏ではなく、国民の公僕としているのだが、英語表記版日本国憲法ではどう訳されているかと言うと、「public-official」となっていて、「civil-servant」シビル・サーバント、即ち「市民僕」とはなっていない。
簡単に言うと日本国憲法は、日本国内向けには国家公務員を「公僕」としているのだが、外国にはパブリック・オフィシャル、「公共の立会人」としているのであり、これは実情を鑑みるに、英語表記日本国憲法の表現の方が正確だと言える。
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簡単に言えば、日本に措ける国家公務員は、市民大衆に仕えていると言う観念で始まっているものではなく、基本的に任命権を持つ各府省庁大臣に仕えていると言うのが正しい。
従って市民の為に働いているのではなく、どちらかと言うと、市民を裁くとまで行かなくても、それに秩序を与える手助けをしていると言う概念に近いものなのであり、こうした考え方は国家公務員各自のありようとしても、実情となっている。
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それゆえ国家公務員の職務に対する責任感とは、現状維持が全てであり、そこに市民のための正義と言う概念は初めから存在しておらず、それがある者は国家公務員の職務を、おそらく長く継続することはできない。
また公務員の職務とは行政組織を構成する職員が分担する仕事を指していて、これを公務と言うが、権限とはこの公務を遂行するために与えられている職権を言い、この職権に基づく行動を職務権限と言う。
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そしてこの職務権限は行政組織の上層部に行くほど大きくなるが、それに比して職務権限の内容は抽象的、漠然としたものになっていく。
例えばこれは局長の職務、また権限だが、「当該局の事務全般を統括、管理する」になっているし、これが事務次官になると「大臣を補佐し省務を整理し、当該各部局等の事務を監督する」となっていて、実情としてこうした局長や事務次官の仕事は何かと言うと、つまりは何もしていないのである。
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日本に措ける行政組織の核心は、職務(所掌事務)と権限(責任)の配分が全てであり、組織全体の仕事を個々の職員が分担できるまで分割し、その職務遂行に必要な権限と責任を明確にして、個々に割り当てて仕事をする仕組みであれば、これは欧米の行政組織のように、職場の有り様は個室職務形式なるだろう。
しかし日本の行政組織は「大部屋執務」と言って、ここでは個々の職位による権限や職務内容に詳細な範囲が定められていない。
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即ちこの方式では、仕事が「係」や「課」と言った組織の基準単位の集団的責任として処理されることになる。
だから例えば「課」なら、課長以下、末端職員まで同室に存在し、全員で一致協力して概括列挙された所属組織の分掌事務を遂行しているのだが、日本の中央省庁でも次官、局長、審議官、官房長などは個室が与えられてはいるものの、この場合の個室はその地位を象徴するものであって、即ちこうした個室での実務は存在してないのである。
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そしてこうした「大部屋執務」の利点だが、まず一箇所で仕事をすることから、全員が協力して仕事が出来ること、仕事ぶりや各自の能力を縦横に評価できる事などが上げられるが、その反面、集団に属して仕事を行うため、所属部署の一員として他の職員との協力的な人間関係の形成や、その維持が重点的になり、本来の職業遂行能力は評価されない落とし穴が存在し、またその所属部署の仕事が、一体何人で遂行すれば最適なのかの組織適正人数が曖昧になり、即ちより余裕のある仕事環境を求めるなら、それは必要以上の職員数の確保となることから、著しく効率を損なった職員数の組織となり易い弊害も発生する。
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それゆえ、こうした「大部屋執務」と言う形態は非常に非効率なものなのだが、これは一つに政府組織のあり方とも関係していて、アメリカの様に「小さな政府」の場合はより責任を明確にしないと、そもそも職務遂行が困難になることから、責任を明確にしていかざるを得ないが、日本の様に「大きな政府」のケースでは、初めから責任の所在が複合化し、煩雑になっているために責任の分割が困難になっている。
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また日本に措ける公務の概念として、冒頭にも述べたように、そこには西洋に見られるような民主主義を基盤とした、「市民の為」と言う意識は存在せず、どこかで上が下の者を管理すると言うニュアンスが拭い去れないが、これは1400年に渡る「官僚機構の歴史的弊害」と言うべきものだろう。
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その上で、さて昨今ひと頃より騒がれることもなくなった「官僚政治からの脱却」だが、これがなぜ困難なのかはご理解頂けただろうか。
日本に措ける行政機構の核心とは、職務と権限の配分が全てである・・・。
つまり官僚機構とはその「人事権」が全てなのであって、官僚にとって実務に優先すべきものが「人事権」と言うことになる。
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だから官僚政治からの脱却を目指して、まず各省庁の人事権を官僚から剥奪すると、確かに官僚政治は理論上消滅するが、それは即ち官僚機構、官僚と言う有り方そのものもまた完全否定していくことになり、ここでは政治が、国民が、と言う議論にはならず、官僚対改革勢力と言う図式しか成立して来ない。
任期の短い、何も実務が分らない各省庁大臣が官僚から人事権を奪うと、全ての業務が停滞し、結局官僚政治の改革が骨抜きに為らざるを得なくなるのは、このためである。
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また歴史的な背景を持つ、官僚の絶対的価値観である「職務と権限の配分」に対する考え方を、いきなり短時間で改革しようとするのは、「海に石を投げるにも等しく」、今日、日本の現状を鑑みるに、こうした官僚達の意識改革を試みるには万事に措いて手遅れである。
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それゆえ官僚政治の脱却を現実として考えるなら、ここでは人事権については妥協することをして、少なくとも「大部屋執務」を廃止し、責任を各職員が明確に把握できる環境を作ることが、より効果的なのではないだろうか。
即ち執務形態を「大部屋」から「個室フロアー」形式に改めることでも、官僚機構の改革は可能なのではないか、またその方が事実上、大きな官僚政治からの脱却に繋がると考えられるのだが、どうだろうか。