こうして真田信幸と徳川家との婚礼が決まり、それから後、真田は徳川配下の武将としての時代を迎えることになる。
しかし1598年9月18日、太閤秀吉がこの世を去ると、俄然天下は風雲急を告げることになっていくが、1600年7月には失脚していた豊臣家の重臣「石田三成」が挙兵、このとき真田昌幸は徳川に反抗していた上杉景勝を成敗するために徳川軍に参加していたが、石田三成の書状を受け取るや否や、徳川軍から逃げ出して上田城へと戻って行った。
天下分け目の戦い、関が原の合戦はこうして始まって行ったが、先鋒として出発した徳川家康の次男「秀忠」は家康からこう言われていた。
「良いか、上田城は攻めてはならない、前をけん制して真田の出足を遅らせるだけで良い、そこから関が原へと向かうのじゃ」
「いさい、承知つかまつりました」
徳川秀忠は一礼すると出陣したが、これまで煮え湯を飲まされていることを考えれば、上田の近くまで来るとどうしても我慢しきれなくなる。
こちらは3万8000、真田はどう考えても2000の兵力しかない。
これで負けることはまず有り得ない事であり、前哨戦としても、またこれまでのいきさつからも父である家康は真田を滅ぼせば喜んでくれるだろう・・・、秀忠は真田昌幸を甘く見ていたが、この秀忠軍には真田昌幸の嫡男「真田信幸」も本多忠勝の娘婿の立場から、東軍として参戦していた。
またこの戦では石田三成の西軍に組みした父昌幸と弟幸村に対して、真田信幸と本多忠政が合戦に及ぶ少し前、説得に訪れていたが、天下と言うものの観点から徳川の正当性を説く信幸に対し、父昌幸はことごとく反対し、最後は信幸の堪忍袋の緒が切れた形となった。
「言うな、伊豆守(信幸)」
「父上は真田を滅ぼすつもりか、もはや時の流れは徳川にございますぞ」
長い沈黙の時間が流れる。
「伊豆守、たっしゃでの・・・」
険しかった真田昌幸はかすかに微笑むと、信幸に言う。
これに対して深く一礼した真田信幸は「父上も健吾にて・・・・」と言う言葉を残し暗い廊下を去って行った。
こうしたことからは徳川家康のもくろみは、またしても真田昌幸の策略のおかげで最悪のケースになってしまったのだが、秀忠軍は真田をけん制しているだけで充分だったのに、秀忠はそれを攻略しようとしてこれに手間取ってしまった。
高い土手から丸太は転がってくる、石が転がってってくる、おまけに「肥」(こえ、人糞)なども引っかけられるなどから、なかなか城にすら辿りつけず、そのために時間を取られた秀忠軍は結局本陣への参戦に遅れてしまい、家康は珍しくこれに大激怒することになるのだが、結果として徳川秀忠の参戦を遅らせたことは、真田がこの時点で出来る西軍に対する最大の貢献となることを考えるなら、何をして勝利と言うか、何をして敗北と言うかをしっかり弁えた真田昌幸の作戦は大変味わい深いものである。
だがしかし石田三成率いる西軍は結局この関が原の合戦に負け、最後まで頑張っていた真田昌幸もついには徳川軍に降伏せざるを得なくなった。
敗戦の将の仕置きは決まっている。
真田昌幸、幸村親子は死罪と決まったが、このとき真田親子の助命を嘆願したのは誰有ろう嫡男の真田信幸であり、その舅である本多忠勝だった。
結局こうした働きかけも有って何とか命だけは助かった真田昌幸と幸村、彼らはその後紀伊の九度山に流罪処分となるが、1611年、この九度山にて真田昌幸は死去、享年64歳だった。
1614年から始まった大阪の陣、その夏の陣で見せた真田幸村の「出城作戦」に徳川軍はまたしても翻弄されるが、この作戦はもともと真田昌幸が九度山にて、大阪城を根城に敵を叩くにはどうしたら良いかを考えて、作戦を練っていたものだったと言われている。
真田昌幸は豊臣がいずれ滅ぶことは予測していたとも言われ、その場合自分だったらどう戦うかを九度山に蟄居しながら、毎日考えていたのだろう。
大阪城を攻めるに当たって、豊臣軍のなかに真田の名前を見た徳川家康は「その真田は親か子か」と尋ねたと言われているが、もう3年も前に死んだことが分かっている真田昌幸、もしかしたら死んだことすら昌幸の策略ではなかろうかと怯える家康の心底は、相手が昌幸だけに理解できないことも無い。
そして大阪城は1614年の夏の陣、1615年の冬の陣と言う、2度の徳川による大阪城攻めで豊臣家滅亡と言う結果に終わったが、この2つの合戦でいずれも徳川を最大限に苦しめたのは信濃の小国、真田幸村軍であり、大阪冬の陣では徳川家康の首に後一歩のところまで迫った真田幸村の名は、その後全国に「猛将」として轟き渡ったが、この幸村には昌幸の姿が重なって見える。
ちなみに「表裏比興」(ひょうり・ひきょう)とは当代の大名たちが真田昌幸を評した言葉だが、老獪なとか、食わせ者と言う意味があり、「比興」は「卑怯」の当て字とも言われ、あまり良い人物評価とは言えないかも知れないが、戦国の世なればこうした言葉にこそ、どこかで誉れの意味を私は見る。
僅か数千の軍で大国徳川に連戦連勝、小国なれど決して戦うことも恐れず、その知略と剣で戦国と言う生き残ることが難しい時代を風のように生き抜いて行った真田昌幸、
今、日本の姿を鑑みるに、自身の有り様を思うに、男はかくありたいと思うのである。