紙の躯体で漆器を作る場合、漆を塗る者としてはどうしても完全に水の浸入を防ぎ、そしていつまでもそれが漆器で有り続ける事を考えてしまうが、この世界で永遠に存在し続ける物など有り得ず、木製の漆器でもその使用頻度によっては1年とその形を維持できない場合も有り得る。
人間の防御とか防衛の考え方は、それが水で有るならどこかでダムや堤防などを築いて完全にこれをくい止める事を考えるが、有史以来これまで世界で洪水が出なかった年は無く、そもそも人体ですらその成分の60%が水である。
つまり人間は自分より歴史の有るもの、より莫大な力を持つものを制御しようと考えているのであり、この場合に訪れるものは力の集約と言う事になるが、この力の集約に頼っているとその事が更なる大きな危機を招く事になる。
完全に防御しようと言う思想は、小さな危機を溜め込み、いつしか大きな危機にそれが成長している事を忘れさせ、そこへ大きな危機が訪れる事になる。
その良い例が戦争であり、石つぶてや槍で戦っている間はまだ人類全体の危機にはならないが、これが根拠の無い恐怖心から発展し、やがて弾薬、ミサイル、核兵器、水爆などとなって行ったとしても、ではこれで恐怖心が無くなったかと言えば、更なる恐怖心に見舞われるのである。
小さな危機に対して完全防御を考える事は可能だ。
だがその小さな危機の防御は未来を不確定にする要因になり、次にはその危機が既存の防御システムでは対応できなくなる。
この連鎖を繰り返す事の恐ろしさはウィルスに対する人間の在り様にも等しい。また防御は力の集約で有る事から、そこで一番力の有るものが他の特性を抑制してしまう事になる。
冒頭の紙の躯体に漆を塗る場合でも、漆で完全な耐水性を得ようとするなら、そこに躯体が紙で有ることの必要性を失わせ、地球上にあまねく存在する水分子を敵に回してしまう事になるのである。
自分が地球でどんな位置にいるのか、また紙の特性と水の特性は何か、その中で自分をどう活かせるか、つまり己が紙の中で、水の中で何が出来るかを考えるなら、そこに防御の虚しさ、無意味さを知る事になるだろう。
紙で有るがゆえに、それが木製の躯体で出来ているもの以上に水を恐れ、それを何とか食い止めようとする。
しかし物が崩壊していく事は自然の摂理であり、水を恐るあまりこんな自然の摂理すら忘れて血眼になって耐水性を考える必要はない。
水で紙が崩壊していく事は紙と水の特性であり、では漆がこれに何が出来るかと言えば、少しばかり壊れにくくなる程度と言う事になろうか・・・。
これが自身の生活を維持する為、利益に追われている製作者によって歪められると、「絶対壊れない紙の漆器」と言う無意味なものを作らせてしまうのである。